戦後の沖縄 ありのままを描く 真喜志勉回顧展

真喜志 勉 TOM MAX Turbulence 1941-2015
多摩美術大学美術館(東京都多摩市)
2020年7月4日(土)―9月22日(火・祝)
先の大戦から75年。実体験として戦争を語る世代がいよいよ少なくなる中、節目の今年は、例年にも増して戦争や原爆、沖縄戦などの話題が活発に論じられ、芸術の世界でも様々な形でテーマになるはずだった。予想外の事態に世界が混乱しても、かつて起きた出来事の重みが変わることはない。「この年だからこそ」という試みは、アートの世界でも地道に行われている。戦後の沖縄の歩みを象徴するような、あるアーティストの展覧会を紹介する。

沖縄県那覇市出身の真喜志勉(まきし・つとむ、1941~2015)は、戦後の沖縄で広く知られた。毎年のように個展を開催し、後進も多く育てた。今展は本土では初となる大規模な回顧展で、初期作から晩年までを網羅した約100点に加え、豊富な資料を紹介している。全国的な知名度は高いとは言えないが、学芸員の関川歩さんは「振り返る価値のあるアーティスト。ひとりでも多くの人に、彼の存在を知ってほしい、ということで企画しました」と話す。

真喜志は那覇で洋服店を営む家に生まれた。戦後、父親は米基地内にテーラーを開店。その後、国際通りに移転する。学生時代から公募展に入選するなど早くから絵の才能を認められた真喜志は、1960年、占領下の沖縄からパスポートを手に上京し、多摩美術大学に入学した。大学時代はラグビーに熱中し、ジャズが大好きだった。卒業後は沖縄に戻り、ネオ・ダダやポップアートの手法も織り交ぜながら、晩年に至るまで活発な制作活動を展開した。

本土復帰直後に、最先端のジャズやアートを知りたいとニューヨークに1年間遊学(1972~73年)したこともある。作品にも米国発のモチーフが目立ち、親近感を隠さなかった点は興味深い。今展のタイトルにもなっている「TOM MAX」という彼の愛称も、そうしたスタンスを強く感じさせる。
基地に囲まれて理不尽な事件が後を絶たず、一方で濃密なアメリカ文化が横溢する土地。本土とは比べものにならないほど、アメリカへの強い反発と憧れがない交ぜになのは、多くの県民に共通するところだろう。だが、こうしたモチーフを積極的に使うのは、沖縄の言論空間を考えると思い切った姿勢だったかもしれない。

戦闘機もたびたび登場するが、必ずしも批判的な文脈が感じられるわけではない。真喜志はスピードのあるものが好きだったという。純粋に身近にあるスピード感のある材料として、戦闘機を好んで描いていたのかもしれない。自分の感覚にマッチした対象を、ストレートに創作に結び付ける姿勢は一貫している。

社会事象そのものを直接、描くことは少なかったが、アーティストらしく問題意識には強烈なものがあった。本土復帰(1972年5月15日)の翌月に、那覇で開いた個展のタイトルは「大日本帝國復帰記念」。招待状は赤紙に印刷された「臨時召集令状」だった。硫黄島の戦いで米兵が摺鉢山の頂上に星条旗を立てた有名な報道写真を題材に、旗を日章旗に変え、シルクスクリーンに転写した図像にも、皮肉では収まらない激しい憤りを感じる。このモチーフは他の作品にも出てくる。米軍の支配下から、「宗主国が本土に代わっただけ」という冷めた捉え方。現在の沖縄と本土の厳しい関係を見るにつけ、こうしたイメージを今、この東京で見ることの重みを感じないわけにはいかない。

80年代以降になると、ポップなイメージは使われることが少なくなり、抽象度の高い作品が増える。画面はグレーや黒が主力になる。「沖縄というと、青い空や海をイメージしがちですが、実際はコンクリート造りのグレーな建物が目立ち、意外とモノトーンです。沖縄固有のカラーとして、自然とグレーや黒に収斂(しゅうれん)していったのではないか」と学芸員の関川さんは言う。上記の写真の作品は沖縄の壁や屋根瓦の塗装にも使われる琉球漆喰で作られた。曲線と、出入口を思わせる四角から構成される画面の下半分は、沖縄独特の亀甲墓(かめこうばか、カーミナクーバカ)を連想させる。

晩年の作品にはオスプレイや、辺野古の「V字滑走路」など、基地問題に直結するイメージが明確に出てくる。Turbulence(乱気流)というタイトルにも、本土や米軍との間で揺れる沖縄の現状への危機感がにじむ。政治的な発言はあまりしなかったという真喜志だが、晩年は辺野古や県民集会にも足を運んでいたという。作品を制作する彼の胸中には、どのような思いが去来していたのだろうか。

展示は制作年代別に4つに分けられているが、タイトルや解説の類いは設置されていない。「パワフルで、多彩なイメージを持つ彼の作品。鑑賞者に解釈を委ねているところもあり、言葉で説明してしまうことには抵抗がありました。そのままを見て、感じてもらい、75年の節目に沖縄のことを考えるきっかけにもなれば、うれしいです」と関川さんは話していた。
詳しくは同館ホームページで。
(読売新聞東京本社事業局専門委員 岡部匡志)