リポート 「新収蔵作品特別展示:パウル・クレー」 東京・アーティゾン美術館

新収蔵作品特別展示:パウル・クレー

  2020年6月23日(火)~1025日(日) 東京・京橋 アーティゾン美術館 

今年1月に開館し、その後、新型コロナウイルスの感染拡大防止のために臨時休館していた東京・京橋のアーティゾン美術館が、6月23日に再開館。「新収蔵作品特別展示:パウル・クレー」が、現代美術家・鴻池朋子の新作などで構成される「ジャム・セッション 石橋財団コレクション x 鴻池朋子 鴻池朋子 ちゅうがえり」展昨年の第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展・日本館展示の凱旋展となる「Cosmo-Eggs |宇宙の卵」、石橋財団コレクション選・特集コーナー展示「印象派の女性画家たち」などとともに開幕した。事前予約制。詳細は同館ホームページで。

 

「新収蔵作品特別展示 パウル・クレー」は、石橋財団が個人所蔵家から昨年まとめて取得したクレーの作品24点と既に収蔵していた「島」を合わせて展示し、クレーの画業全体を展望する企画だ。

同館はブリヂストン美術館(同美術館の旧称)時代の初期(1958年)に、小規模ながら日本初となるクレー展を開催。近年はキュビスムを起点に抽象絵画の誕生・発展に関わる作品を収集してきたが、昨年、クレーの重要な活動期の作品をほぼ網羅した「ど真ん中の作品」(同美術館学芸課長の新畑泰秀さん)がまとまって加わり、お披露目を兼ねた公開となった。クレーの歩みは当時のヨーロッパ抽象絵画の発生・展開の息吹きも伝えてくれるだろう。

バウハウス時代の作品が並ぶ展示室の一画

 足跡

パウル・クレー(18791940年)はスイス・ベルン生まれのドイツ人で、独ミュンヘンのグループ「青騎士」、同ワイマールに設立された造形学校「バウハウス」などで作家、教師として活動。ナチスによる前衛美術の弾圧の下で故郷ベルンに亡命し、晩年は皮膚硬化症に苦しみながらも旺盛な創作を続けた。

幼いころからヴァイオリンに親しみ、ベルンの市立管弦楽団のヴァイオリン奏者を務めた時期もある。移り住んだミュンヘンではピアニストの妻が家計を支えた時期があり、クレーは「主夫」として家事やひとり息子フェリックスの子育てをした。音楽や子どもの夢、遊びを連想させる作品が少なくない。

  前衛芸術のうねりの中で

クレーが画家として表舞台に登場した1910年代は、ピカソやブラックが主導したキュビスムが美術界に大きな影響を及ぼした時期だ。特別展示を企画、担当した学芸員の島本英明さんは、この時期の「小さな抽象的ー建築的油彩(黄色と青色の球形のある)」(1915年)を「クレーがこれからクレーになろうとしている時期の作品」と呼ぶ。フランスの美術界の動向に刺激を受け、前年の1914年にはアフリカ・チュニジアを旅行して「色彩に開眼した」とされる。

「小さな抽象的―建築的油彩(黄色と青色の球形のある)」(1915年)

 

伝説のバウハウスで

「庭の幻影」(1925年)はバウハウス時代の作品だ。バウハウスには抽象絵画の創始者とも呼ばれるロシア出身の画家カンディンスキーほか、前衛芸術の先駆者たちが教員として集まっていた。

水平線で何重もの層に分けられた画面の中央には、木が三本。太陽のような天体を思わせる像も見える。クレーの描く線は、コンパスや定規で描かれる完全な円や直線とは異なり、クレーの手から生み出される独特のもの。ディテール(細部)の魅力の源泉でもある。下地のニュアンスも豊かだ。時には1か月を下地作りに費やしたともいい、色の階調だけではなく、物質としての厚み、深さ、生命体のような揺らめきさえ感じさせる。「幻影」という言葉がタイトルに含まれている通り、現実を超えた夢のような雰囲気も漂う。

「庭の幻影」(1925年)

 

切断という手法

「負け試合」(1928年)は描いた作品を切って、左半分を単独の作品としたものという。一度描いた後にはさみで切断してバラバラの作品にしたり、組み合わせて再構成したりするのはクレーの特徴のひとつだ。この作品の対となる右半分の画面には、犬の彫像が描かれていたらしい。

切り離すことによって物語的な連関を断ち、それぞれの画面は新たな視覚体験を導く。「犬」を失った左画面には、打ち捨てられたような世界が生まれた。「『負け試合』というタイトルは切り離した後に考えたものだろう。犬の画面と一緒となっていた時には思いつかなかったはず」と島本さんは見る。切断前の全体像(紙上で再構成した参考図版)や他の切断例については、この特別展示の図録で紹介されている。

「負け試合」(1928年)

 

 政治の影

「立ち向かう矢」(1933年)の左端には赤い矢が。この作品が描かれた1933年、ドイツではヒトラーが政権を奪取。前衛芸術は弾圧の対象となり、バウハウスは閉鎖へ。バウハウスを去りデュッセルドルフ芸術アカデミーに移っていたクレーにも圧力は押し寄せ、結局33年の暮れにスイスへ亡命することになる。

その状況下で描かれた、平坦で硬質な世界に爪を立てるかのような赤い矢印は、時代の流れに抗おうとするクレーが作品に託したメッセージだったかもしれない。

「立ち向かう矢」(1933年)

 

病と闘うクレー

ベルンに逃れたクレーは、さらに皮膚硬化症という難病に冒され、1940年に世を去る。運動機能が徐々に失われる中、他界する前年の1939年には1年で約1250点の作品を量産した。描くことがクレーの生活そのものだったかのように。

「教師」(1939年)  図像は大味になっていくかに見えるが、画面に充満する一種の圧力の中で、表現力は激しさを増しているようにも見える

 

「新収蔵作品特別展示 パウル・クレー」はアーティゾン美術館の4階の一角で開かれている。同じフロアでカンディンスキーの「自らが輝く」(1924年)も展示中だ。

ヴァシリー・カンディンスキー「自らが輝く」 1924年

 「自らが輝く」はカンディンスキーがバウハウスでクレーとともに教鞭をとっていた頃の作品。先に触れたクレーの「庭の幻影」(1925年)と見比べて、二人の間にどのような会話が交わされていたかを想像してみるのも一興だろう。

 交通至便な都心で、収蔵品による企画で味わえる「青春時代」の抽象絵画。日本の美術館の成熟を感じさせる企画でもある。

(読売新聞東京本社事業局専門委員 陶山伊知郎)

 

*作品はいずれも石橋財団アーティゾン美術館蔵

 

 

 

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