リポート「神田日勝 大地への筆触」 東京ステーションギャラリー

「馬(絶筆、未完)」(部分)

神田日勝 大地への筆触

2020年6月2日(火)~6月28日(日) 東京ステーションギャラリー(東京駅)

7月11日(土)~96日(日) 神田日勝記念美術館(北海道・鹿追町)

9月19日(土)~118日(日) 北海道立近代美術館(札幌)

神田日勝(かんだ・にっしょう 19371970年)は、日本が高度成長と国際化に向かって驀進する中、北海道で農業の傍ら馬や室内風景を描いた画家。北海道の公募展で道知事賞を受賞するなど若手のホープとして将来を嘱望されたが、1970年に病を得て32歳の若さで他界した。広く名を知られるようになったのは没後で、1978年には東京・小田急グランドギャラリーで個展が開かれた。北海道の大地で独学で苦悩しつつ描いた夭折の画家として知られる。2019年のNHK連続テレビ小説「なつぞら」で人気を集めた画家「天陽くん」のモデルにもなり、あらためて注目された。

「自画像」(1964年頃、神田日勝記念美術館蔵)

没後半世紀の今年、東京では42年ぶりの回顧展が実現。作品の多くは北海道にあり道外では実作を見る機会が限られていたから、ファンにとっては待望の個展だろう。「農民画家」とも呼ばれるが、会場に並ぶ作品からは、造形的な挑戦を続け、戦後の美術動向にも無関心ではなかった様子が浮かび上がる。418日開幕予定だったが、新型コロナ感染拡大防止のため臨時休館となり、開幕が延びていた。会期中無休で、日時指定チケットが必要。詳細はホームページで。

北海道発

日勝は東京・練馬の生まれ。一家は終戦直前の19458月、拓北農兵隊(戦災者帰農計画)に応募して北海道鹿追村(現・鹿追町)に移住した。3歳違いの兄、一明(かずあき)は東京芸大の油絵科に進んだが、日勝は十勝で開拓農民として日々の労働に励み、画家として生きた。農作業の合間の昼食時にも描くことがあったという。改造した左官ゴテやペインティングナイフを使って主にベニヤ板に描いた。

中学時代に兄の影響で油絵の制作を始め、卒業後は家の農業を継ぎ、通信教育で高等酪農学校に学びながら、地元の公募展に応募。18歳の時に痩せた農耕馬を描いた作品で初入選。全道展では1960年に初入選を果たし、翌年には23歳で北海道知事賞を受賞。北海道で美術教師となっていた兄も北海道教育長賞に選ばれ、兄弟同時受賞で話題になった。

22歳で全道展で初入選した「家」(1960年、個人蔵)  企画した東京ステーションギャラリー館長の冨田章さんは「画面のどこにも深い奥行きが見られない日勝らしさがすでに表れている」と指摘する
1961年第16回全道展で兄、一明の「赤い室内」(北海道立近代美術館蔵:左)が北海道教育庁賞、日勝の「ゴミ箱」(個人蔵:右)が北海道知事賞に。  兄の作品は「芸大仕込みのしっかりした画面」(冨田さん)。完成度の高さを感じさせるが、その兄に「空間ができていない」と突き放された日勝の作品の方が、作品の生命力はまさっているように見える。歪みや非構築性が表現力に転化されたからだろうか

 

「ゴミ箱」の中央部分。ドラム缶の上面は上から、胴の部分は真横から見た姿で描かれている。複数の視線が混在するのは日勝の特徴でもある
「馬」(1965年、神田日勝記念美術館)  馬は10歳代のころから、主要な画題だった

日勝の記憶

企画とキュレーションにあたった同ギャラリー館長の冨田章さんと神田日勝との出会いは、約四半世紀前。当時在籍していた横浜のそごう美術館で北海道立近代美術館の所蔵品展を担当。その展覧会に日勝の「室内風景」(1970年)が含まれていた。「上手いわけではないが、不思議な力があった」と冨田さん。以来、頭の隅にあり、4年前に神田日勝記念美術館の「東京で個展を」という思いを知り、開催を即決したという。

「室内風景」(1970年、北海道立近代美術館蔵)

「室内風景」は日勝の最後の完成作。奥行きの浅い構図、部分から積み上げる手法、色彩の追求、入り乱れる複数の視点など、日勝のさまざまな特徴を反映し、次の飛躍をうかがうかのようだ。中央の膝を抱える男には、農民と画家というジレンマに悩む日勝自身が投影され、そこに現代人の孤独や苦悩を見ることもできる。

部分から全体へ

前後関係、構成が出来ていないという兄の指摘に、日勝は「そうしようとすると描けない」と答えたという。さまざまな要素を描き留め、それらを集めるように描くのが日勝の描き方だった。題材は身の回りのもの、東京から取り寄せた美術雑誌にヒントを得たものなどさまざまだ。写し取った図像を複数の作品に使った例もある。つまり、個々のリアリティは濃厚だが、ある情景を写生風に再現したものではない。

ひとつひとつの要素を描き切って、それから次の部分に進む。バラバラの「部分」で構成された画面は時に「歪み」を生むが、それは「不思議な構成」となり、ある力を発する。

冨田さんと日勝の出会いとなった「室内風景」でも、まず手前の人形などが描かれ、次に自画像、最後に背景の新聞紙というように、部分部分を完成させながら、全体をを作り上げていったのではないかと思われる。当然、こうした情景があったわけではない。新聞紙は、それまでの作品に現れる板壁や石壁と同様に「視線をさえぎり、平面をつくり出すための装置として用いられた」(冨田さん)。一見したおもしろさ以上に、造形的な取り組みの結果なのだ。

「室内風景」(部分:1970年)  日勝はひとつひとつ描き切ってから次へ進んだ
「室内風景」(部分:1970年)

色彩

中央の独立美術協会の展覧会にも出品を重ねたが、なかなか注目されなかった。ポップアートなどが台頭した1960年代。時代の流れに応えようとしたのか、色彩あふれる作品が現れた。まず牛を主題に、腹部を切って赤い内臓を見せた作品が、次いでカラフルな画材や日用品であふれる室内情景を描いた。

「牛」(1966年、:右) 「画室 A」(1966年:中) 「画室 B」(1966年:左)

 

「画室 B」(右) 「画室 C」(1967年:中) 「画室 E」(1967年:左)  レンガ造りの壁は日勝の作品にふさわしく見える
日勝の使った絵の具缶、チューブやパレットナイフ

 

未完、あるいは到達点

「馬(絶筆、未完)」(1970年、神田日勝記念美術館蔵)

「馬(絶筆、未完)」は鹿沼町の神田日勝記念美術館の象徴的な作品のひとつ。札幌から車で約3時間半という距離だが、この作品を見るためだけに鹿追まで足を運ぶファンも少なくないという。

胴部分は下塗り止まり。臀部、後脚は鉛筆による輪郭線がかすかに見えるばかりだが、対照的に頭部と肩口、前脚は徹底的に描きこまれている。鼻や口、ひづめ、さらに周辺の毛並みなど、細部まで丹念にパレットナイフで描かれた。間近に馬に接してきた「農民画家」ならではの生々しさがある。

後脚部などは鉛筆による輪郭線だけが残された

30歳前後には突然のように原色を多用して室内を題材にした作品を描いたが、32歳で迎えた最後の年、再び馬を取り上げた。「原点回帰」と見えるが「ただ馬に戻っただけではない」と冨田さんは指摘する。

たとえば一見、焦げ茶色一色に見える馬の色。神田日勝記念美術館の学芸員、川岸真由子さんが図録のエッセイで指摘しているように、かつてはモノトーンに近かった馬の体に、目を近づけると様々な色が潜んでいるのが分かる。

馬の左目の周囲。多様な色合いが見て取れる

描かれずに残された背景も、以前のような板壁、石壁になったかは分からない。この時期のものと思われるデッサンには、馬の背景に机や日用品、さらには家が描かれたものがある。

上段、下段中央のデッサンでは馬の背景に家が見える。いずれも1970年頃の作品だ

32歳と言えば、いよいよこれからといってもよい年代だ。造形的な試みが精力的に続いていたのは当然だろう。

「馬(絶筆、未完)」というタイトルは、命が尽きて筆が継げなかったという悲劇性を高め、没後の人気の一因ともなった。一方、この「未完説」に対して、頭から描き始めたが途中で行き詰まり、放置されたのではないかという見方もある。部分から始める日勝の描き方は、兄が「空間が出来ていない」と批評したように、全体像が不透明なままの営みだった一面もある。「放棄説」にも理はありそうだ。

だが、この「未完」ないし「放棄された」作品は、独特の力を発して、多くの人の心を引きつけてきた。この置き去りにされたような、悲哀を押し殺したような馬の姿は、見る者の心に痛みに似た感情を引き起こし、しばらく目をひきつけて離さない。日勝が自らの意思で筆を止めたのか病状が描き継ぐことを許さなかったのかは別にして、自身の神髄に迫る表現をこの「未完」の状態に見出していたかもしれない。

東京展は628日までで、北海道外では唯一の会場となる。日勝の作品を初めて見る人も少なからずいるだろう。彼らの心に「室内空間」や「馬(絶筆、未完)」はどのような痕跡を残すだろうか。冨田さんに続いて日勝の個展を手掛ける未来のキュレーターが生まれないとも限らない。

(読売新聞東京本社事業局 専門委員 陶山伊知郎)

 

 

 

 

 

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