リポート 「フィリップ・パレーノ展」 東京・ワタリウム美術館

オブジェが語りはじめると
2019年11月2日(土)~2020年3月22日(日)
ワタリウム美術館(東京・神宮前)
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パリに拠点を置き、映像から立体作品、空間のインスタレーションまで、さまざまな作品を手がけているアーティスト、フィリップ・パレーノ(1964年生まれ)の個展が東京のワタリウム美術館で開かれている。同館の館長、和多利(わたり)恵津子さんが、近年の充実ぶりに注目して企画した展覧会だ。
会場には近作を中心とした7作品が、同美術館の2階から4階まで3フロアにわたって展示されている。目に入るのは人工的な機器やオブジェばかりだが、自然のリズムに包まれる感覚が湧いてくる。このパレーノ独特の持ち味はどこから生まれるのだろうか。。
2階には4作品が集中する。「ハッピー・エンディング」は、手吹きガラスのランプのインスタレーション作品。パレーノが初期から継続的に手がけている作品で、今回は2点で構成。それぞれ独自のペースで点滅を繰り返している。

「花嫁の壁」は、スポットライトのついたアクリルガラスによる透明な壁のような作品だ。約100年前にアメリカの前衛美術家マルセル・デュシャンが手がけたガラスの作品「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(1915-23年、 フィラデルフィア美術館)に由来する。



3階展示室を占拠する「マーキー」は、アクリルガラス2面と電球、ネオン管などで構成される。変幻自在な照明と音声が主役の作品だ。


一見、昭和時代の家電製品を連想させる装いだが、背後には最新の高度なテクノロジーの支えがある。温湿度、気圧、風向きなどを把握する精密なセンサーが屋外に設置され、コンピュータにデータを送る。コンピュータは設定されたプログラムにしたがってデータを加工して音や光を生み出す。つまり、外界の環境変化に応じて、一回かぎりの視覚、聴覚環境がつくり出されている。
そのコンピュータは「少し前なら絶対できなかったレベルの本格的なもの」(和多利さん)といい、「マーキー」だけでなく、他の作品ともつながり、同様の「制作」を行っている。2階で見た「ハッピー・エンディング」の点滅に呼吸のようなリズムを感じたのは、このためだった。
さらにWiFiでデータを送信するセンサーカメラも会場に設置されている。自然環境だけでなく、会場内の人の動きをも反映して、作品は「呼吸」を続けていることになる。
4階はひと部屋の閉鎖的な空間に、漫画の吹き出しをモチーフにした「吹き出し(白)」(1997年)と「壁紙 マリリン」(2018年)が展示されている。天井には吹き出しの形をした風船が、壁にはアヤメの花の図柄を燐光性インクでプリントされた壁紙が配され、明るい空間だ=写真上=。だが一旦、照明が消えると風船は闇に浮かぶ廃物のようにも見え、壁にはアヤメの図柄が、現実感を失ってぼんやりと浮かび上がる=写真下=。落差のある明暗の行き来は、言葉で表しきれない訴えや、世の虚飾などに思いを誘う。


和多利さんとパレーノの出会いは1995年に開かれた「水の波紋」展だった。ワタリウム美術館がベルギー現代美術館の館長だったヤン・フートを招いて組織した、屋外に展開する展覧会だ。フートが選んだ国内外48人の作家の中にパレーノがいた。

パレーノは原宿のビール会社横の広場を自作用の場所に選び、昼食をとるために集まるサラリーマンに「もっと快適に過ごせるように」と氷で作った雪だるま作品「リアリティーパークの雪だるま」をつくった。

「日本で展覧会を開く上で欠かせない」と、今回も氷の「雪だるま」は出品されている。ただし約2週間かけて解ける過程を見せるのが重要な要素で、「全身」を見られるのは設置直後の数日間に限られる。
最初に訪れた時は、氷は解け切って、目や鼻として埋め込まれていた小石は床に散らばっていた(「前出の写真」)。聞こえた水の響きは、「雪だるま」が解けて水がしたたり落ちる音を録音したものだった。
二日後に再訪してみると、「雪だるま」はみずみずしい全身像を見せていた。開場間もない時間帯だったが、氷の表面はわずかながら早くも解け始めていた。展示台の方に耳を寄せると、再生された音に混じって、目の前の「雪だるま」の解けた水滴の音がかすかに聞こえたような気がした。気温と氷のコラボレーション。その自然のリズムは、隣の「しゃべる石」が沈黙した時、「ハッピー・エンディング」のライトの点滅と静かなハーモニーを紡ぎ出していた。

様々な展示物の背後に控える「本格的」コンピュータは、展覧会を全体でひとつの作品のように息づかせ、未知の感覚的経験を呼び起こす可能性を秘めている。和多利さんは「最先端のテクノロジーだからこそ生み出せる、自然に肉薄するような原初の感覚」という。
「ハイテク」と自然と人の感性が、ここで調和への一歩を踏み出しているのかもしれない。


(読売新聞東京本社事業局専門委員 陶山伊知郎)
