村井正誠 あそびのアトリエ
2020年2月8日(土)~4月5日(日) 世田谷美術館(東京・砧公園)
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洋画家・村井正誠(1905~99年)は、建築家で教育者の西村伊作らが創設した文化学院の大学部美術科で学んだ後、1928年に渡仏して抽象的な画風を築いた。足掛け5年にわたる滞仏の後、新時代洋画展や自由美術家協会の創立に加わり、戦後はモダンアート協会を立ち上げるなど、画壇に新風を送り続けた。日本の抽象絵画のパイオニアと呼ばれるが、作品は生涯を通して「おおらかで、やさしく、あたたかく」(世田谷美術館学芸員の三木敬介さん)、人の営みへのまなざしが感じられる。
渡仏前後から最晩年まで、油彩77点を含む計200点の作品と資料により、「抽象絵画のパイオニア」の歩みを振り返る展覧会。村井の没後に約900点にのぼる作品や資料を寄贈された世田谷美術館のコレクションによる企画だ。巡回はない。
フランス時代
1928年、文化学院大学部を卒業してほどなく渡仏。マティス、アルプ、モンドリアンらの影響を受けたと言われる。パリで古今の西洋美術に触れる中で、日本の装飾的な造形意識を生かした抽象画に自らの道を定めたようである
「不詳(パンチュール)」(1929年頃) 村井は俵屋宗達の屏風絵に関心を持っていたという。この作品も日本の伝統的な美意識を感じさせるが、三木さんはマティス「川辺の水浴者」(1909-1917年 シカゴ美術館)も連想するという。(「川辺の水浴者」の図柄は https://artexhibition.jp/topics/news/20190927-AEJ105303/ の最後に掲載されています)
帰国、前衛画家としての活躍
帰国後、村井は前衛的な美術団体の創設に関わるなど積極的な活動を見せる。
「百霊廟」(1938年 右端)など「幾何学的な抽象の時代」の作品が並ぶ。百霊廟は中国・内モンゴル自治区にあるラマ教の寺と土地の名。村井は百霊廟の航空写真を参考に、幾何学的な作画を試みた
「花」(1944年頃:右) 前衛美術家として活動したが、シュルレアリスムの瀧口修造、福沢一郎らのように検挙されることはなかった。太平洋戦争中は花をモチーフに穏やかな抽象画を描いている
戦後の展開
「聖母と天使達」(1948年) 村井自身はキリスト教信者ではなかったが、この作品を描く前年にミッション系の小学校で図画科の講師を務めた始めたこともあり、「聖母子」や「天使」はしばしば画題となった。中央左に見られる円を含む矩形は、繰り返し用いられるイメージとなる
「黒い線」(1957年:中) 1950年代は、太い線による具象的なイメージを融合させた。「線の時代」と呼ばれる
黒の時代
1950年代後半にヨーロッパの前衛美術「アンフォルメル」が日本に紹介され、美術界に大きな衝撃をもたらした。村井の作品も変化を見せる。
50歳代に現れた「黒の時代」。「線の時代」の黒い線が拡張し、黒が画面を覆うようになった
「不詳(黒いひろがり)」(1959年頃)は「黒の時代」の初期作品。やがてほとんど黒一色の作品へと変わっていく。一見単調に見えるが、絵の具の盛り上げ、余白など、表情の豊かさを秘めている
画面の揺らめき
村井の描く図像は、写真で見ると明快な形に見えるが、色面の境界は複雑なニュアンスを帯び、三木さんは「画面に揺らめきが生まれている」と指摘する。
正面の壁の3点は1980年代の作品。タイトルは左から「二人」「モードの二人」「二人」といずれも人に因んでいる
「人」 1992年
「人」の部分拡大図。白は、赤や黒を塗った後に施されている。塗り残されてキャンバスの地がのぞいているところもある
アトリエ
村井は1939年、東京・世田谷の等々力に自身の設計による自宅兼アトリエを構え、以後、約60年にわたってここで制作を続けた
「アトリエの村井正誠」1989年 撮影:田沼武能 (会場の写真パネルより) 村井のアトリエは自身の素描や立体作品、収集した民芸品、古道具、仏像などであふれていた
展覧会の第一室には村井の「自画像」シリーズ(1985年 アルミニウム、黒鉛吹付:3点)とともに、アトリエに残されていた民芸品などが並べられている
晩年の充実
三木さんは展示を終えて「画家は、ある時期にピークを迎え、その後は作風が形式化するなど創造性の退潮が見られることが多いが、村井は晩年まで伸び続けていたことを実感した」という。
「四人」(1973年:左)「人と風」(1966年:中)と並ぶ晩年の作「大覚寺」(1992年:右)。色数を絞り簡素化した画面には風格もただよう
「仲間たちと」(1996年)は最晩年の作のひとつ。造形的な試みが続いていることがうかがわれる。村井は1999年に93歳で没した
村井正誠記念美術館
村井正誠記念美術館 撮影:宮本隆司 2005年(会場パネルより) 村井の没後、自宅・アトリエは再建され、美術館となった。リニューアルの設計は隈研吾。当時の大島清次・世田谷美術館館長との縁もあって指名されたという。毎週日曜日、事前予約のみで公開されている。海外からの訪問者も多い。通算で30を超える国から来訪者を迎えたという
村井は抽象画でもリアリティがなければならないと考えていたという。教育者として子どもたちとの接点も多かった村井の作品には、常に温もりがあったように感じられる。「芸術」という高みに閉じこもることなく、開かれた生活の場で制作を続けた作家だったのだろう。
(読売新聞東京本社事業局専門委員 陶山伊知郎)

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