リポート 津田青楓展 東京・練馬区立美術館 

生誕140年記念 背く画家

津田青楓 とあゆむ明治・大正・昭和

2020221日(金)~412日(火)東京・練馬区立美術館

  津田青楓(つだ・せいふう 1880-1978年)は明治時代末に洋画家・安井曾太郎とともに渡仏して西洋絵画を学び、帰国後、在野の美術団体「二科会」の創立に加わったことや、文豪・夏目漱石の著作の装丁を数多く手掛けたことで知られる。一時、社会性の強い油彩画も残したが、のちには南画を中心に滋味豊かな作品を描いた。明治から昭和までの津田の多彩な歩みをたどる、初の本格的回顧展が実現した。

晩年の津田青楓(会場の写真パネル)

 百貨店の図案家からフランス留学へ

小学校卒業と同時に京都の生地問屋に丁稚奉公に出された青楓は、書画の手ほどきを受け、やがて図案製作を手がけるようになった。日露戦争を含む2度の兵役をはさんで京都市立染織学校や洋画家の浅井忠と鹿子木孟郎が主宰した関西美術院の夜学などで画業を学んでいる。図案家として勤めた京都高島屋の幹部の助力もあり、官費によるフランス留学の機会を得る。1907年、26歳の青楓は、私費留学の安井曾太郎とともにパリにわたり、1910年まで同地で学んだ。アカデミー系の画家ローランスらの指導を受けたが、同じ時期にパリにいた高村光太郎によれば、青楓は西洋近代美術よりも古代エジプト、古代ギリシャなどに関心を示していたという。苦労人の横顔と、自身に忠実であろうとする一面がうかがわれる。本展の企画者で練馬区立美術館学芸員の喜夛孝臣さんは「(当時パリで話題を呼んでいた)フォーヴィスムなど前衛運動を追わなかったのは、時流に迎合しない青楓らしい」と分析する。

手前のケース内には、花道家の兄や漆芸家の友人と共に発行した図案雑誌などで発表した初期の図案が並べられている

 

右は青楓がパリで師事したジャン=ポール・ローランスの「ピエトロ」(1907年); 左は8歳年下の留学同期生、安井曾太郎の「グレー風景」(1908年); 手前は留学時代に青楓が日本の家族らと交わしたハガキ類
フランスから帰国した年の青楓の作品「暮れゆく橋」(1910年)

 漱石との交遊

夏目漱石は青楓の飾らない人柄が気に入ったらしく、油彩画の手ほどきを受けるなど交遊を深めた。青楓は漱石の小説の装丁を数多く手がけると共に、漱石や門人たちと交わった。

「道草」「三四郎」「それから」「門」「彼岸過迄(縮刷)」など青楓が装幀を手がけた漱石の著作

 

津田青楓「漱石山房と其の弟子達」(制作年不詳) 夏目漱石、寺田寅彦、鈴木三重吉、岩波茂雄、内田百閒らが描かれている

洋画家、指導者としての歩みと挫折

二科会創立以来、青楓は同会を足場に洋画家として地歩を築く。数え年50歳を迎えた1929年には二科会展で、青楓の特別陳列が行われた。

後進の指導にも関心を向け、1926年に京都に津田青楓洋画塾を設け、続いて31年には東京、32年には名古屋にも画塾を開設した。塾生には後にシュルレアリスムの画家として知られることになる北脇昇もいた。

一方、京都でマルクス主義経済学者・河上肇と交流を深め、1930年に河上が総選挙に立候補した際には応援演説にも立つほど、河上の社会思想への共鳴を示した。「蟹工船」を書いたプロレタリアート文学の旗手、小林多喜二が獄死した1933年には、国家権力に虐げられる社会運動家をモチーフにした作品「犠牲者」を描くが、官憲に検挙され、半月余りの取り調べの後、プロレタリアへの関心を断ち切る「転向」を誓約して起訴を免れた。これ以後、社会的な主題ばかりか油彩も断念し、二科会からも脱会した。

 

青楓の洋画の大作。右は「出雲埼の女」(1923年)。青楓が私淑した良寛の出生地・新潟県出雲埼を訪ねた折に宿屋の娘をモデルに描いた作品。左の「夏の日」を描いた1929年には、青楓の50歳(数え年)を記念し、二科展では青楓の特別陳列が行われた

 

左は津田青楓「研究室における河上肇」(1926年)。奥の2作品は、津田青楓洋画塾の塾生だった北脇昇の作品。「マート」(1932年 奥の壁の左側の作品)で、北脇は二科展で初入選を果たし、画壇に登場した

  

津田青楓「犠牲者」(1933年) この作品を描いた33年に青楓は検挙され、転向する。「犠牲者」は戦後まで公表されなかった
「犠牲者」の左下部分。格子の向こうには、権力の象徴でもある国会議事堂が描きこまれている
青楓の転向を報じる当時の新聞

  

 半世紀にわたる南画の時代  良寛への思いを胸に

1933年(昭和8年)の「転向」の結果、青楓は洋画と縁を断った。二科会も退会して画壇から離れ、南画的な世界に専念する。もともと日本画から出発した青楓は、フランスで洋画を学んだ後も、絹本著色による掛け軸作品などを描いていたが、転向後は社会性、政治性を排した南画の世界で生きていくことになる。漱石との交遊期に草書屛風を見て以来ひかれていた良寛への傾倒も深まり、良寛や良寛の父、以南についての著作も著した。

大正時代以来の作品が、青楓の日本画における技量を示す
手前は青楓の「山高水長画巻」(1937年)。奥の壁には良寛の書風に学んだ青楓の書も並んでいる

   

「白梅丹頂鶴」(1950年:右壁の中央の作品)など戦後の青楓の作品
戦後には再び油彩も描いた。「伊万里壺」(1949年:右)と「静物(台にりんごとぶどう)」(1950年:左)

 ほぼ一世紀を生き抜いた青楓の人生は、近代日本の歩みにも重なる。明治、大正、昭和の美術史を語る際には必ずといってよいほど名が登場するが、画家としての全貌を知る機会は限られていた。漱石との交遊、左翼思想への共鳴と転向、良寛への傾倒など人物像も興味深い。日本の近代美術を丁寧に取り上げてきた練馬区立美術館ならではの企画。巡回はない。

(読売新聞東京本社事業局専門委員 陶山伊知郎)

美術館の前の緑地。亀やきりんなどの動物彫刻が子供たちを迎えていた

 

 

 

 

 

 

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