リポート 「木村忠太の世界展」 名古屋・ヤマザキマザック美術館

「魂の印象派」
高松市生まれの木村忠太(1917-1987年)は1953年、36歳で渡仏。南仏やパリの風景を描き続けた。風景の中の人物、家、木々、道、自転車、車などを題材に、華やかな色彩、自在な線で独自の世界を描き出した。光の中で風景の記憶が移ろうかのような画風は、「魂の印象派」とも呼ばれる。中部圏では初となる個展が、名古屋市のヤマザキマザック美術館で開かれている。前後期通算して58点が展示されている(開催中の後期は油彩29点、素描3点、リトグラフ11点、陶器1点の計44点)。

国内外で展覧会
木村は1985年に米ワシントンのフィリップスコレクション美術館で、続いてニューヨークの画廊でも個展が開催され、現代美術の中心地アメリカでの活躍が期待された矢先の1987年にパリで急逝。生前から企画されていた日本での個展が1989年、高松市美術館と東京・渋谷区立松涛美術館で開かれ、1994年には東京国立近代美術館と国立国際美術館で大規模な回顧展が開催された。近年では、2017年に木村の作品を37点所蔵していた群馬・高崎市美術館(現在は71点所蔵)で展覧会が開かれている。
コレクターの思い
ヤマザキマザック美術館には、創立者の故山崎照幸氏が購入した3点の作品がある。「セーヌ河畔」はその中の1点で、画廊で木村の作品をいくつも見た中から山崎氏が選びだしたという。

インパクトのある色彩、力強く抽象的とも見える画面構成、建物や橋の線が生む現実感など、木村らしさを感じさせる作品だ。山崎氏は、後の雑誌のインタビューで「フランスの画家になり切っている。世界のひのき舞台で通用する」と木村を評し、「もう少し長生きすればピカソのように有名になったのに」と惜しんだ。
東海地方のコレクション
木村とは地縁もなく、展覧会が開かれたわけでもない東海地方だが、木村を評価する研究者やファンは少なくなかった。本展を企画した同美術館主任学芸員の吉村有子さんは、「調べ始めたら、名古屋、豊橋、三重の美術館が木村の作品を収蔵しており、加えて熱心な個人コレクターもいて、東海地方の作品を中心に展覧会を構成することができた」と語る。

秘蔵作品も
今回出品作品には、個人コレクターが秘蔵し、一般に公開される機会がほとんどなかった作品が含まれている。長年の木村ファンにとっても新鮮な出会いが期待できるはずだ。

1983年の作品「六月の光」はそのひとつ。1970年代の終わりころ、木村はコレクターに「おくたーぶを挙げて白っぽくなる強い色を使うのに二十年苦闘しました」と書き送り、白への「開眼」を示唆している。新境地を切り開きつつ、高ぶる気持ちを吐露した言葉とも受け取れる。ほぼ年代順に作品が展示されている会場にあって、「六月の光」は晩年の作品にもかかわらず、最初に陳列されている。作品の重要性に加え、鑑賞の機会がめったにないことから、注目作品として吉村さんが選んだ配置だ。
突然の幕切れ
フランスで活動した木村にとって、1980年にパリのグランパレで開かれた「現代美術国際フェア(FIAC)」はひとつの転機となった。この時、評価されたことで、木村への注目が高まる。

その後ワシントンの個展を経て、日本での展覧会も計画される中、ニューヨークに拠点を置く計画が具体化した1987年7月、木村は突然、旅立ってしまった。この年の作品「雨雲」には切迫した緊張感が漂っているようにも見える。

同年4月にコレクターに宛てた木村の手紙には「これから十年努力すれば永遠の後世に残ると思います。ぜったいにやる決心です」という言葉が書かれていたという。「余命の短さは自覚してはいなかったはず」と吉村さんは語る。焦燥感ではなく自負心の現れだったとすると、その急逝はなおさら、いたましい。
価値を問い直す
グローバルという概念も意識もない時代に、国境を越え、造形の探求に突き進んでいた木村。その真価は「ボーダーレス」時代の今、あらためて考えてみる必要がありそうだ。「画家は展覧会を開かないと忘れられてしまう」という吉村さんの熱意で生まれたこの展覧会。木村の作品世界に触れ、その価値を問い直す好機になるだろう。
(読売新聞東京本社事業局専門委員 陶山伊知郎)
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“フランスに生きた日本人画家 木村忠太の世界” -色と線の美しい記憶―
2019年11月15日(金)~2020年3月1日(日) 名古屋・ヤマザキマザック美術館 *3月8日(日)まで開催の予定でしたが、新型コロナウイルスの感染予防ならびに拡散防止のため、3月2日(月)から16日(月)まで同美術館が臨時休館となり、本展は3月1日で閉幕となりました。
©ADAGP, Paris&JASPAR,Tokyo,2019