リポート 「おかえり美しき明治」展 東京・府中市美術館で12月1日まで

西洋文化が押し寄せた明治時代の日本。美術界でも油彩画が本格的に登場した。来日した西欧の画家や日本人画家の作品によって当時の日本の姿と日本洋画界の歩みを振り返る「おかえり美しき明治」展が、東京の府中市美術館で開催されている。府中市美術館所蔵の約70点を含む油彩75点、水彩165点、素描22点、その他58点(総点数320点)が集められ、前期後期(それぞれ約220点)に分けて展示されている。12月1日まで。
揺籃期の19世紀末
パリで象徴派やナビ派らが、ウィーンではクリムトらが活躍した19世紀の世紀末。日本の美術界はまだ洋画の揺籃期にあった。このころ、画技の修練のために東京・武蔵野を写生のために訪れていた画家の一群がいた。その時のスケッチ作品が地元・府中市美術館に収められている=写真=。画家たちは「不同舎(ふどうしゃ)」という私画塾の教授陣と生徒たち。1887年に創設され、小山正太郎、浅井忠らが、中村不折、満谷国四郎(みつたに・くにしろう)、鹿子木孟郎(かのこぎ・たけしろう)たち画学生の指導に当たっていた。

成長の歩み
西洋画は安土桃山時代の「南蛮画」以来、日本でも知られていたが、本格的に移入されたのは幕末から明治時代になってからだ。展覧会は明治の洋画の黎明期から日本と欧米の画家の研鑽・交流を軸に、当時の日本の自然や人々の暮らしを描いた作品を紹介しつつ、日本の洋画の成長に添って進む。


日本洋画の開拓者といわれる高橋由一(1828~1894年)は、幕府の機関で画学を学んだ後、英国の絵入週刊新聞の特派員だったチャールズ・ワーグマンに横浜で師事した。



画学生たち
1876年には初の官立美術学校となる工部美術学校(辰野金吾展にリンク)が設立され、小山正太郎、淺井忠らが外国人お雇い教師フォンタネージの元でバルビゾン派の褐色系の描法を学んだ。フォンタネージの離任後、小山は同学校を退学し87年に画塾・不同舎を設立。89年には不同舎などを核に国内の洋画家を集めた明治美術会が創設され、日本の洋画界の中心となった。
渡欧と帰国後
前後して渡欧する画家たちも現れる。1880年には五姓田(ごせだ)義松が渡仏。その後、原田直次郎、浅井忠らが続いた。海外での研鑽を終えた画家たちは帰国後、画塾を開くなど、日本の洋画振興に取り組むが、伝統に根差した日本美術の振興を第一とした明治中期以降の日本では洋画は日陰的な存在だった。洋画家たちは耐えながら画業にとりくんでいた。

知られざる洋画家たち
日本の風俗を描いた作品は、多くは外国人が購入して海外に持ち帰った。近年までほとんど注目されることのなかった笠木治郎吉(かさぎ・じろきち:1870~1923年)の作品は、当時の庶民の暮らしぶりを伝える歴史の証言者でもある

日本を描く
開国して洋画を学び始めた日本に、海外の画家も訪れた。日本を旅して描きとめる彼らに、日本の画家たちは学び、あるいは私淑した。国内外の画家が描いた京都、静岡・三保の松原、富士山、日光など現在の世界遺産をなぞるようなラインアップで作品が並ぶ。


外国人画家も当然ながら一様ではない。ぼんやり湿り気のある画風のイーストと、くっきりとした明快な表現のパーソンズは対照的だ。日本の画家も油絵で日本の風物、情景に挑んだ。




展覧会は、日本の世界的遺産を回りながら、終盤で地元・府中に戻ってくる。

エネルギーに満ちた「旧派」
展覧会の中核をなす不同舎系の画家たちは、明るい色調を用いた「外光派」の画家、黒田清輝の勢力が画壇の中心を占めるようになると「旧派」と呼ばれ、非主流派となっていった。企画者で府中市美術館副館長補佐の志賀秀孝さんは彼らの歩みに注目し、同美術館の収蔵作品と全国から集めた作品を並べ、「旧派」にも漲(みなぎ)っていた青年期の日本洋画のエネルギーを浮かび上がらせた。府中市美術館にとっては、1990年代前半の準備室時代に作品収集を始めて以来の、ひとつの集大成ともいえそうな展覧会となった。
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2019年9月14日(土)~12月1日(日) 東京・府中市美術館