「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」6月8日オープン

鶴岡八幡宮が「神奈川県立近代美術館 鎌倉」を改修

2016年3月に閉館した「神奈川県立近代美術館 鎌倉」が、建物を引き継いだ鶴岡八幡宮による改修工事を終え、文化交流施設「鎌倉文華館 鶴岡(つるがおか)ミュージアム」=写真㊤=として生まれ変わった。6月8日にオープンし、開館記念の「季節展示・夏」(6月8日~7月15日)では八幡宮の歴史や「鎌倉文士」と呼ばれた文学者たちを紹介する。

戦後復興期の1951年11月、鎌倉市の鶴岡八幡宮境内に開館した「神奈川県立近代美術館」(当初の名称)は神奈川県と八幡宮の土地貸借契約終了に伴って閉館。しかし、4月17日に記者発表した鶴岡八幡宮の吉田茂穂(しげほ)宮司は「ビジターセンターとしての要素とともに、八幡宮や鎌倉の歴史・文学・仏教・美術などを紹介する展示活動ができないかと考えている」と述べ、美術館活動を新たな形で継続する方針を明らかにした。

美術館を引き継いだ思いを語る吉田茂穂宮司

輝かしい「カマキン」の歴史

前身の「神奈川県立近代美術館」(当初の名称)は敗戦4年後の1949年、内山岩太郎県知事が「民主主義を推進するためには人々が集う場がなければならない」と呼びかけ、鶴岡八幡宮が土地を提供して建てられた。
戦前のパリで近代建築の巨匠ル・コルビュジエに師事した坂倉準三(1901~69年)が設計し、日本で初めて「近代」を冠した公立美術館として開館。日本初の本格的なパウル・クレー展(1969年)、ムンク展(1970年)を開いてブームを呼び、高橋由一(ゆいち)、佐伯祐三、松本竣介ら明治~昭和期の日本近代美術の画家に光を当てるなど、戦後の美術館活動を先導。80~90年代に日本各地で建設されていく公立美術館のモデルとなった。
「鎌倉近代美術館」(鎌近=かまきん)、「カマキン」の愛称で鎌倉文士の大佛(おさらぎ)次郎、川端康成、小林秀雄、永井龍男らに愛され、川端は交友のあった画家・古賀春江の代表作「窓外の化粧」などを寄贈。美術館の敷地で撮影された小林秀雄、立原正秋らの写真もよく知られている。

西の県道側から見た建物。小林秀雄などのスナップ写真もこの場で撮影された

モダニズム建築の傑作

建物は鉄骨2階建て、延べ床面積1575㎡(1階745㎡、2階830㎡)と小さいが、日本のモダニズム(近代主義)建築の傑作として名高い。
四角い中庭を持つほぼ真四角の建物で、2階に入り口のある展示室は右回りに観客を導くように構成されている。ル・コルビュジエの「無限成長美術館」というアイデアに影響を受けており、所蔵品が増えて美術館の規模を大きくする必要があれば、渦巻きが成長するように右回りに増築できるよう構想したものだ。
ル・コルビュジエは弟子に遅れること7年半、1959年6月に開館した国立西洋美術館(東京・上野、世界文化遺産)で「無限成長美術館」を初めて実現させた。その後、インドに「サンスカル・ケンドラ美術館」(1957年)と「チャンディガール美術館」(1965年)を建てるが、鎌倉の美術館は明快な平面構成から「師よりもたくみに(構想を)実現させている」(建築家の磯崎新氏)との評価もある。

坂倉は近代建築の手法だけでなく、日本の伝統建築の要素も融合させた。建物に面した「平家池」に細い柱を立て並べ、1階の吹き放し(ピロティ)を水面に張り出させて「内部に立って外部の自然との調和あるつながりを感ずる空間」(坂倉の言葉)にしている。
モダニズム建築の調査・保存を目的として設立された国際組織「DOCOMOMO」(ドコモモ)は「日本の近代建築20選」の一つに選び、建築史家から「国重要文化財に相当する」との指摘も受けた。

平家池に張り出したピロティ。晴れた日は池の照り返しが天井に水の模様を描く
新たに整備された遊歩道から見たピロティ

「更地にして返還」から「継承・保存活用」へ

しかし、美術館の敷地は鶴岡八幡宮が神奈川県に無償貸与し、1955年度からは有償契約で借りていたもの。県は2013年、国史跡の八幡宮境内にある建物の大規模改修が難しいことなどを理由に契約が終了する2016年3月で閉館し、八幡宮と道を挟んで隣り合う「鎌倉別館」と2003年に開館した葉山館(葉山町)に集約する方針を示した。
契約上は「更地にして返還」が条件だったため、建築・美術関係者や市民から建物の保存を求める声が上がった。

鎌倉は昭和40年代から観光客が増大。近年は鶴岡八幡宮に向かう「小町通り」が平日もごった返し、八幡宮境内も参拝客が増えて手狭になっている。それでも八幡宮は契約条件を返上し、美術館の建物を残す決断をした。
吉田宮司はその理由として、地元の熱意で「カマキン」が建てられた経緯と、その後の美術館活動への高い評価、存続を願う美術・建築関係者や市民の思いを挙げ、「八幡宮もこの境内にふさわしくたたずんでいる美術館を残したいという思いが強く、県と思いが一致した。伝統を引き継いで参りたいということで建物をお預かりしました」と述べた。
「神奈川県立近代美術館 鎌倉」は2016年11月に神奈川県指定重要文化財に指定された上で、12月に県から八幡宮に譲渡された。

改修前の「神奈川県立近代美術館 鎌倉」。1966年に増築された右の新館は解体(2013年撮影)

1966年当時の姿に復原

鶴岡八幡宮はその後、1年間の設計期間と1年半の工期をかけて大規模改修と耐震補強を実施。改修設計は丹青研究所、施工は竹中工務店が担当し、坂倉準三の設計事務所を引き継いだ坂倉建築研究所が協力した。
「坂倉準三の原点に戻す」(吉田宮司)ことを方針としたが、1951年の完成当時ではなく、坂倉の生前に行われた手直しなどが一通り落ち着いた1966年時点の姿に復原したという。ただし同年に本館と並んで建てられていた新館は解体した。

屋根の形状を元に戻し、平家池に面した大窓が半分になっていたのを復原。灰色に塗られていたI型鋼柱を本来の茶色に戻した。柱や梁に補強を行って耐震性を確保し、1階の大谷石積みの壁には9か所に鋼板耐震壁を封入。風化した大谷石を交換した。2階の外壁ボードを交換して白色のフッ素塗装を行い、輝くような外観になった。利用者の便を図るため、館内の目立たない場所にエレベーターも新設している。

参道寄りの東側に変更された入り口。かつて新館があった手前の空間には、いずれ彫刻を設置する予定

 

利用者にとって大きな違いは、正面入り口の変更だ。以前は西の県道側だったが、大鳥居から本宮に向かう参道寄りの東側1階にして、境内との一体感を高めた。その北側には、2010年に強風で倒れた神木の大イチョウの樹幹を保存展示し、カフェとミュージアムショップを併設する「附属棟」が建てられた。
さらに、平家池の周りを遊歩道にして、池を挟んで正面からも建物を眺められるようにした。境内のほぼ中央を東西に伸びる流鏑馬馬場から南側は、憩いのある空間として整備していきたいという。

2階の展示室
平家池の周りに遊歩道が作られ、四季の変化を楽しめる。建物左側の窓は、上下が半分の大きさに変更されていたのを元に戻した

国重文指定への期待

4月17日の記者発表で、国重要文化財への指定について質問された吉田茂穂宮司は「当然めざしていきたい」と述べた。
改修の経過は4月20日から5月6日まで開かれたプレ展示「建築公開『新しい時代のはじまり』」でも公開されたが、文化財としての価値を損なわないよう留意しつつ改修し、活用を図るという難しい条件下の工事だっただけに、建築史や建築保存の専門家による客観的な評価が待たれるところだ。

記者発表と同じ日に開かれた特別内覧会のレセプションでは、1978年から学芸員としてこの建物に勤務し、閉館も見届けた神奈川県立近代美術館の水沢勉館長が「再び美術館として使われる日を迎えたことは、まことにおめでたい」とあいさつ。報道陣の取材に「今後は(神奈川県立近代美術館の)鎌倉別館、葉山館とも連携し、お互いに生かし合いながら新たな文化空間へとつながっていくことを期待している」と述べ、新しいミュージアムの出発を祝った。

(読売新聞東京本社事業局専門委員 高野清見)

「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」https://tsurugaokamuseum.jp/

「鶴岡八幡宮」境内案内図 https://www.hachimangu.or.jp/about/lineage/index.html

 

境内からの入り口に掲げられたプレート
閉館まで東側の入り口にあった「神奈川県立近代美術館」のプレート。今日でも珍しい英・仏・独語の併記は、戦後の復興期に「近代美術館」として出発した気概を示すものだった