<城、その「美しさ」の背景>第41回 福知山城天守 価値の高い外観復元天守 光秀が築いた天守台に 香原斗志

明智光秀が積んだ天守台が残る
明治5年(1872)に廃城になったのち、丹波(京都府、大阪府、兵庫県にまたがり、福知山は京都府)の福知山城は徹底的に破壊された。
建物は払い下げられ、現在はいくつかの寺の山門が福知山城から移築されたと伝わり、二の丸の登城路近くにあった銅門番所が本丸に移築されているにすぎない。また、堀もすっかり埋められたが、それだけではない。本丸の西側に連なっていた二の丸は、台地ごと削り取られてしまっている。陸軍の福知山連隊が駐屯地から演習地に向かう際、台地が邪魔なので削った、ということのようだ。

しかし、そんな目に遭ったわりには、本丸には貴重な遺構が残っている。明智光秀が築いた天守台である。
福知山城の前身は、16世紀前半に塩見頼勝が築いたとされる掻上城、のちの横山城で、今日に伝わる福知山城は明智光秀にはじまる。天正3年(1575)に織田信長から丹波攻略を命ぜられた光秀は、同7年に平定を終える。そして、横山城を福知山城と改名して築き直し、城下の町割りも行ったようだ。ただし、光秀自身は亀山城を丹波の拠点とし、福知山城には甥の秀満を置いた。
光秀が羽柴秀吉に討たれたのちは、領主が頻繁に入れ替わっている。そのなかでは、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦ののちに6万石で入封した有馬豊氏が、あらためて近世城郭として整備した。寛文9年(1669)に朽木稙昌が常陸国(茨城県)の土浦から3万2000石で入封してからは、明治維新まで朽木氏が13代にわたって城主を務めた。

だが、城主が移り変わっても、光秀時代の、すなわち天正10年(1582)の本能寺の変以前の石垣は、主として天守台に温存されている。天正時代に積まれた石垣で、よい状態で残っているものは少ないので、非常に貴重な遺構である。
石垣に転用された大量の五輪塔や宝篋印塔の意味
天守台の石垣は、岩盤を掘り込んで根石を据え、そのうえに大小の自然石を積み上げた野面積で、発掘調査の結果、3回増築されたことがわかっている。
その最たる特徴は、五輪塔や宝篋印塔などの石塔や石仏、墓石などが、石垣の築石として大量に転用されていることだ。現在、天守台の南側に組み込まれているものだけで90点を超え、石垣内部に充填する栗石などに使われていたものが約250点あり、総数は500を超えるとのこと。年号が刻まれた石も多く、古い石塔が延文4年(1359)、新しいもので天正3年(1575)だという。

要は、光秀が近隣の寺院から石をかき集めたわけで、そんなことをした理由は、石材不足を補うためだったといわれる。事実、当時は築城に石材が使われるようになって日が浅く、山から採石するシステムがまだ整っていなかった。しかも、短期間に築城する必要があったから、なおさらだった。
織田信長が将軍足利義昭のためにわずか70日で築いた京都の二条城は、石垣で築いた城としては初期の例だが、石垣が地下から見つかった際、やはり大量の転用石が確認されている。

ほかに、石仏に城を守護してもらおうとした、とか、寺社などの旧勢力の権威を否定し、みずからの権威を指し示した、といった見方もある。
天守台の石垣には、増築した際の継ぎ目がはっきり見てとれるが、継いだほうも同様に自然石による野面積で、光秀時代の石垣と積まれた年代に大きな差がないことがわかる。

さて、そんな天守台のうえには、昭和60年(1985)から61年にかけて鉄筋コンクリート造で建てられた外観復元天守が建っている。
復元考証および設計を手がけたのは、小田原城や熊本城の天守再建の際にも設計を担当した藤岡通夫博士で、古写真がなかったため、江戸時代の平面古図「丹波国天田郡福知山城本丸天守ノ図」と、天守や櫓の外観が少々記号的に記された古絵図「丹波福知山城屋敷割絵図」が参考にされた。
古写真発見でわかった外観復元天守の正確さ
福知山城の天守台は、きわめていびつな形をしている。細長く、著しく歪んで、凸凹がたくさんあり、西側にはこれまたいびつな小天守台が連なる。広島大学名誉教授の三浦正幸氏は「天守史上で最も複雑怪奇な天守であった」とまで記している。
前述の古絵図に描かれた天守は、たしかに奇怪な姿をしている。2重目に大きな入母屋破風がある望楼型で、そこに1重の望楼が載っていて、最上階の入母屋は、向きが2重目とクロスしている。不思議なことに、廻縁は北側にしかないが、西側は入母屋破風の先端が3重目の軒に届きそうなほど伸びているので、廻縁はつけられない。そして、最上階西側壁面は窓が左右両端に開けられ、南側には切妻屋根がつく出窓がある。
西側に出っ張った石垣上には、1重目と2重目が同じ大きさで、入母屋屋根がかかる付櫓が描かれている。また、2重目の隅は1重目より壁面が出っ張っていて、石落としがもうけられている。

こうして説明しただけでも、かなり個性的なのがわかると思う。そして、藤岡道夫博士が設計した、いま建っている外観復元天守は、この絵図に描かれた、見方によっては突拍子もない姿を再現している。それに対しては、ほんとうにこんな姿をしていたのか、と疑問視する向きもあった。
そこに2020年7月下旬、飛び込んできたのは「福知山城天守古写真を発見」というニュースだった。
オークションサイトに出されていた不鮮明な古写真を見て、福知山城の天守だと見抜き、検証したうえで22万円を超える価格で落札したのは、城郭・古建築模型作家の島充氏だった。この古写真の学術的価値は、すでに各方面で認められている。
この写真を見ると、天守最上階の壁面は漆喰で塗り籠めてあり、柱や長押は見えない、最上階の屋根は比較的扁平である、屋根は反りをふくめてもっと伸びやかである――。このようにディテールには、外観復元天守と異なる点が確認できる。
しかし、屋根の構造や、下見板が張られた壁面の形状、窓や石落としの位置など、いま建っている天守が、明治に取り壊された天守の姿を、ほぼ正確に再現していたこともまた明らかになったのである。

また、この奇怪な姿は、江戸時代の天守として考えると「奇怪」でも、天正年間に建てられた初期天守であるなら、いかにも、という姿である。大量の転用石同様、明智光秀の手になる天守が明治まで存在していた可能性もあり、その外観が史実に近いかたちで再現されているのだから、現行天守の価値が高まったことはまちがいない。
島氏は古写真を解析し、すでに精巧すぎるほどの模型を製作している。そこには初期の天守ならではの、均整がとれていないがゆえの、入り組んだ美しさが再現されている。だが、それに近い姿は、天守台のうえに眺めることができるのである。