美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第29回「いろはの㋳」――闇を彩る江戸の名物

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歌川広重「名所江戸百景 両国花火」

橋の上 玉屋玉屋の声ばかり なぜに鍵屋といわぬ情なし

江都の夏の風物詩となっている隅田川花火大会。墨田区のホームページによると、その歴史は八代将軍・徳川吉宗の時代にまで遡るという。享保181733)年5月、飢饉と疫病の流行による死者の慰霊と災厄除去を祈願して行われた「両国川開き」。後に恒例となるこのイベントはこれが最初だったのだが、初日に花火が打ち上げられたのだそうだ。

以降、「川開き」と「花火」はセットで江戸の人々に親しまれてきた。花火のよく見える両国橋は、大勢の人でごった返した。そこで起きた“事件”をモチーフにしたのが、古典落語の「たがや」。マクラで紹介されるのが、大田蜀山人が詠んだという冒頭の狂歌である。

花火が打ち上がるたびに「たぁまや~」の声がかかる。どうして「かぁぎや~」がないのか。もともと江戸の花火師は「鍵屋」が本家なのであって、そこから独立したのが「玉屋」だった。「株式会社宗家花火鍵屋」のホームページによると、文化5(1808)年、〈鍵屋番頭の清七、のれんわけして、両国吉川町で玉屋を名乗る〉とある。この玉屋、腕はあったのだが運が悪かった。火事を出して廃業させられてしまったのである。江戸っ子は判官贔屓。不運だった玉屋をしのんでこのかけ声を続けている、と言われている。

まあ、それはともかくとして、両国の花火は江戸の名物となっていただけに、浮世絵にも多数描かれている。上に挙げたのは安政5(1858)年、歌川広重が描いたものだ。空を彩る2種類の花火。下界をよく観ると、橋の上には見物人が大勢いることが分かる。闇夜の黒と川の流れの藍。花火の光とのコントラストが見事だ。

北尾政美「浮絵東都中洲夕涼之景」

江戸時代から花火にはいろいろな種類があったようで、尾を引きながら上空を飛んでいくものは「流星」と呼ばれていた。北尾政美の「浮絵東都中洲夕涼之景」に描かれているのが、その「流星」。隅田川にかかる新大橋のやや下流、「中洲」はその昔、納涼観月を楽しむところだったという。川岸には料亭・茶屋が建ち並び、川面は花火見物の屋形船で賑わっている。歌川国芳が「東都名所 両国の涼」で描いているのは、船上での花火打ち上げの様子と、その手前、屋形船で飲んだくれている見物客。「打ち上げを描いているのは、珍しいですね。屋形船の右側の船は水菓子か何かを売っているようです」と太田記念美術館の主席学芸員・日野原健司さん。国芳らしいユーモラスな対比である。

歌川国芳「東都名所 両国の涼」

見晴らしのいいレストランやカフェに陣取って、おいしいものを食べながら花火を観る。現代でも、ちょっとお金に余裕のある人は、そんなふうに優雅に花火を観たりする。それは昔も変わらないようで、歌川国貞の「両国夕すずみの光景」では、料亭の二階からゆったり花火見物をしている女性たちの姿が描かれている。中央の女性の隣には、花火を指さしてはしゃいでいる子どもがいるから、セレブな奥さまたちの集まりなのかもしれない。向こうに見える両国橋は相変わらずの大混雑。屋形船は交通渋滞をひきおこしているようだ。江戸の世にも「格差社会」はあったのだなあ。何だかしみじみしてしまう。

歌川国貞「両国夕すずみの光景」

西洋画の技法を持ち込み、浮世絵に新たな表現をくわえたのが、明治に入って活躍した小林清親だ。光と闇のコントラストを印象的に描く「光線画」で一世を風靡した。その清親の「両国花火之図」は、いかにも「らしい」作品である。花火の強烈な光。それを観て喜ぶ人々の影――。ダイナミックな構図とビビッドな色遣いが印象的だ。

こうして両国の花火を描いた浮世絵を一覧していくと、それぞれの時代で絵師たちが様々な工夫を凝らしてきたことがよく分かる。花火のどういう側面を切り取るのか。その美しさをどのように表現するのか、それを観た感動をどう表現するのか……。夜空を彩る光の芸術、花火を愛でる人々の心は、21世紀の今と変わらないのである。

(事業局専門委員 田中聡)

小林清親「両国花火之図」


美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】
江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。