<城、その「美しさ」の背景>第40回 宇和島城天守 太平の世を象徴する「見た目」重視 香原斗志

小ぶりでも見る人に強い印象を残す宇和島城天守

小ぶりなのに堂々たる存在感

天守本体の高さは15.7メートルで姫路城天守のちょうど半分にすぎない。しかも、1階平面は平側(軒に並行した長いほうの側面)6間×妻側(軒に直角な短いほうの側面)6間で、江戸城や名古屋城、徳川大坂城など幕府系城郭の標準的な櫓よりも小さい。高さが同じ彦根城の11間×6.5間とくらべるとなおさら、小ぶりなのがわかる。そのわりには、現存する宇和島城天守は堂々としていて存在感がある。

愛媛県南部、豊後水道をはさんで大分県と向かい合う南予地方の中心都市である宇和島。リアス式海岸で知られる宇和海の最深部、海に突き出た標高約77メートルの丘上に、慶長元年(1596)から6年かけて城を築いたのは藤堂高虎だった。それ以前にもこの丘上には城があったが、高虎があらためて一から築き、二方が海に面し、三方は海水を引き込んだ堀に囲まれた不等辺五角形の城域をもつ近世城郭が完成した。

当時は板島丸串城と呼ばれ、そこに高虎は天守も建てた。天守台の石垣は築かず、自然の岩盤上に建てられたその天守は3重3階で、1階平面は6間四方と現存天守と同じだったようだ。ただし、1階を大きな入母屋屋根が覆い、そのうえに2重の望楼が載って3階には廻縁がめぐらされた望楼型天守で、左右非対称の複雑な外観だった。

その後、富田信高が城主を務めたが5年ほどで改易になり、慶長19年(1614)に伊達政宗の長男の伊達秀宗が10万石で入封。仙台の伊達家の別家として、明治維新を迎えるまで9代にわたって城主を務めた。かつて板島と呼ばれたこの地は、すでに高虎の時代に宇和島と改称されていたが、城の呼び名は板島丸串城のままだった。それがようやく秀宗の時代に、城も宇和島城と呼ばれるようなった。

二の丸方面から眺めた天守

その後も縄張りは高虎が築いたものが継承されたが、高虎が古材を集めて建てたと伝わる天守は老朽化するのが早かったようだ。このため2代藩主の伊達宗利の時代に解体されたのち、寛文4年(1664)から再建工事がはじめられ、翌年に完成したのが現存する天守である。

初代天守と同様に3重3階だが、時代を反映して、1階から最上階まで四角い箱を一定の比率で逓減させながら積み上げる層塔型で、初代天守の下見板張りと異なって、白漆喰の総塗籠による真っ白い外観になった。

東側(玄関の反対側)から仰いだ天守

あらたな天守が完成した寛文5年(1665)は、すでに泰平の世が訪れてから久しく、宇和島城天守は実戦への意識が希薄だとよく指摘される。どの点からそういえるのか、まず外観から見ていきたい。

戦闘意識に乏しい見せるための天守

まず天守の入口だが、まるで御殿建築のような唐破風の玄関である。現在の玄関は幕末近くに改修された姿だが、敵の侵入を防ぐ、または遅らせるという意識はまるで感じられない。

唐破風の天守入り口は御殿風

天守台の高さは4メートルほどで、築石を切りそろえた切込みハギで積まれている。天守本体はこの石垣の天端の少し内側に建てられ、このため四方に幅1メートル近い犬走ができている。これでは敵に、天守への侵入をうながしているようなものだ。

もっとも、切込みハギの石積みは幕末近くに、従来の石垣を覆うように積まれたもので、もともとはこれほど広い犬走はなかったと考えられるが、それにしても戦闘に対する意識の薄さは隠しようがない。

天守台の周囲には犬走が

宇和島城天守が華麗で堂々たる姿に見えるのは、数多く飾られた破風の影響が大きい。1階には平側に三角の千鳥破風を2つ並べた比翼千鳥破風、妻側にも千鳥破風が1つもうけられている。そして2階は、平側に千鳥破風、妻側に向唐破風が設置され、3階の屋根は平側に軒唐破風が飾られている。

これらの破風は非常にバランスよく配置され、これに玄関の唐破風が加わり、天守の外観が華やかな印象を受ける。ところが、これらの破風は内部の構造になんら影響をあたえていない。

雪の日の天守。破風がバランスよく配置されている。

一般には破風は出窓と同様の構造で、建物の内部に破風の間ができて、外の敵を射撃したりする場に使われた。ところが、宇和島城天守の破風はいずれもただの装飾で、内部の構造になんら影響をおよぼしていない。もちろん破風の間はない。純粋に見せるための飾りなのである。

じつは、寛永15年(1638)に三代将軍徳川家光が再建した江戸城天守も、破風はすべて純然たる飾りだった。それは将軍家の権力が盤石になった時代ならではの意匠で、宇和島城の破風にも同様に、太平の世の意識が反映している。

山上の天守を遠望する

もしかしたら宇和島城天守は、明暦3年(1657)の大火で焼失した江戸城天守の姿を意識して建てられたのだろうか。窓の上下に長押型をもうけて格式を強調している点も、破風や窓の配置が左右対称になるように徹底してこだわっている点も、江戸城天守と重なるのだ。

意外と攻撃しやすい仕かけも

一方、内部に入ると、必ずしも平和ボケしているだけではないことにも気づかされる。

1階は3間四方の身舎(床面の中心部分)が障子戸で囲まれ、その周囲を1.5間の入側(身舎の周囲を取り巻く廊下のような空間)がめぐる。そして、身舎の天井がかなり高いことに気づくだろう。身舎の梁を入側よりもかなり高い位置に架けて、そのうえに2階を載せているのだ。

高い位置に梁が架けられ天井が高い天守1階の身舎

身舎の面積は1階と同じで、入側だけが狭くなった2階は、1階の天井が高い分、高い位置に張られることになる。このため2階の窓は比較的低い位置に開くので、鉄砲を自然な姿勢で構えることができる。また、窓の格子は五角形の断面なので、さまざまな方向に射撃しやすい。

天守1階の入側

鉄砲を撃つための狭間は1つも開けられていないが、こうして意外と攻撃しやすいように配慮されているのである。3階の唐破風の下に排煙窓がもうけられているのも、鉄砲を撃った際に煙を逃がすためだと思われる。

窓の格子は五角形で多角的に射撃しやすい

戦闘が日常だった時代はすでに遠い過去である以上、戦闘の際になにが必要か、という勘が鈍るのは当然だ。ことさら意識しないかぎり、戦闘や防御への配慮を行き届かせることは難しかっただろう。とはいえ、曲がりなりにも天守である以上、武家による統治のシンボルである。戦闘への意識は鈍っても無になることはなかった、ということだろう。

だが、宇和島城天守の華麗で、同時にやさしさを湛えたような美しさは、太平の世ならではの、のんびりとした意識と無縁ではない。小さくても統治のシンボルとして装飾を重ねる。その際、左右対称やバランス、格式の高さに最大限の注意を払う。そうした意識をなによりも優先することができたという点でも、やはり宇和島城天守の美しさは、太平の世を象徴している。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『教養としての日本の城』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等、近著に『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(同)がある。