<城、その「美しさ」の背景>第39回 二条城 徳川の武威と権威を天下に示す 家康のねらいが凝縮

徳川家の権威を発揚する装置
二条城の歴史における最大のハレの日は、寛永3年(1626)9月6日だった。その日、後水尾天皇の行幸を迎え入れたのである。天皇が武家の屋敷(居城)に行幸するのは、天正16年(1588)に後陽成天皇が豊臣秀吉の聚楽第を訪れて以来、38年ぶりのこと。それから5日間、贅を尽くした料理のほか、舞楽や能楽、和歌や管弦の遊びなど、これ以上ないもてなしが供された。
ホストはすでに将軍職を退いていた大御所の徳川秀忠と三代将軍家光。彼らはたんに既存の城で天皇をもてなしたのではなく、その日に合わせて家康が築いた二条城を大改修していた。ちなみに、行幸に同伴した後水尾天皇の中宮和子は、元和6年(1620)に嫁いだ秀忠の五女である。
二条城の敷地は東西に長く、西側が少し狭くなった凸型をしている。寛永2年(1624)2月、親藩や譜代大名19家に天下普請による修築が命ぜられ、増築されたのがこの狭くなった西側だった。その内側に堀で囲んだ方形の本丸が増設され、その西南隅には伏見城から移築された五重の天守がそびえ立った。この天守には天皇が登って都の眺望を楽しんだと伝えられている。

では、改修前の二条城はどんな姿だったのか。西側の凸型の出っ張りと、その内側の堀に囲まれた本丸を切り捨ててみるといい。現在の二条城の東側3分の2ほど、あまり広くない一重の堀に囲まれたほぼ方形の、単純な構造の単郭の城だった。
しかし、家康が二条城を築いた目的を考えれば、その単純さは取りたててマイナスにならなかった。
家康が京都のほぼ中央、二条通と堀川通が交差する位置に建ち並ぶ5000軒もの町屋を立ち退かせ、加藤清正ら西国の大名に二条城の築城を命じたのは慶長6年(1601)5月のこと。前年9月、関ヶ原合戦に勝利してからまだ半年余りしか経っていなかった。
少し北にあった豊臣秀吉の聚楽第にならい、御所の西方に朝廷との儀式に供する徳川家の拠点を設け、朝廷および諸大名に徳川の世の到来を知らしめるのが二条城の目的で、城としての防衛力や軍事力はそれほど求められなかったのである。
現に家康は慶長8年(1603)、伏見城で征夷大将軍の宣下を受けると、二条城から御所に参内。さらに勅使を二条城に迎え、将軍就任の賀儀を執り行った。二条城はいわば徳川家の権威を発揚するための装置で、2年後の慶長10年(1605)、将軍職を秀忠が世襲した際にも、二条城は同様に使われた。
慶長20年(1615)に大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしたのち、家康が115日も滞在したという事実も二条城の位置づけを物語る。家康は公家や諸大名を招いて戦勝を祝う能を催したほか、二条城を拠点に戦後処理とその後の体制づくりを模索。元和と改元した7月、公卿一同をこの城に呼びつけて禁中並公家中諸法度を発布し、天皇や公家の動きを統制した。
家康の好みが反映されている
したがって、後水尾天皇の行幸に合わせて大改修したのも、二条城の元来の目的を考えれば、当然のことだといえる。とはいえ、徳川政権のキックオフの舞台になった城であるだけに、家康が築いた当初の二条城がどんな姿だったのかが気になるというもの。じつは案外、いまの二条城にもその姿は映し出されている。家康の痕跡を歩いて辿ってみたい。

まず堀川通に面した正門にあたる東大手門。現在の白亜の櫓門は寛文2年(1662)の改修後の姿で、寛永の行幸のときには、2階から天皇を見下ろすのは不敬だという理由で、単層の薬医門だった。ただし、行幸以前にはやはり2階建ての櫓門だったことがわかっている。
北大手門の前から堀に沿って北に進み、城域北東の角を西(左)に曲がると、やはり漆喰で白亜に塗り籠められた北大手門がある。この門は高さが東大手門と同じ13.5メートルで、横幅は6メートルほど短いものの、意匠は東大手門と変わらない。開口部のうえに弓矢を放てる格子窓が並び、その左右に2つずつ窓が開き、窓の上部にアクセントとして長押型が打たれている。

じつは東大手門は、慶長8年(1603)の築城時からここにある。もっとも、現存する建物が創建当時のものか、寛永の行幸に合わせて建て替えられたものかはわからないが、上記した意匠は幕府系の城郭に共通するもので、家康の好みが反映されたものであるのはまちがいないだろう。
東大手門に向かって左側(南側)の角に建つ東南隅櫓も、寛永の行幸に合わせて建てられたものだが、やはり家康の面影は色濃い。白漆喰の総塗籠で1階に出窓型石落としが飾られ、2階の窓の上下が長押型で飾られるという意匠は、家康の存命中に建てられた名古屋城の現存櫓(前回の連載で取り上げた)と共通する。

ところで、東大手門や東南隅櫓、北大手門の周辺の石垣は、築石を整然と加工してすき間なく積んだ切込みハギや、築石に一定の加工を施して規格化し、すき間を小さくした打込みハギで積まれている。しかし、家康が築いた当時の石垣は、自然石に荒加工を施して積んだ野面積みに近いものだった。そのころの石垣は城域の西北、寛永の行幸に合わせて凸型に増設された部分のやや東側に残っている。

だが、家康時代の石垣を見たければ、堀川の護岸に行くほうがいい。二条築城に際し、平安京の造営時に運河として開削された堀川が外堀の役割をになった。そして、護岸が石垣で固められたのだが、野面積みに近い荒々しい石垣が改修されないままよく残り、単独で国の史跡に指定されている。

家康の建築を改修した国宝・二の丸御殿
二条城といえば、将軍が上洛した際の居所であり、朝廷との儀式の舞台でもあった国宝の二の丸御殿に、とりわけ価値があることは周知のとおりである。この御殿が建てられたのは慶長8年(1603)、家康による築城時で、その後、寛永の行幸に備えて大きく改修された。

とはいえ、建物の配置が大きく変わったわけではない。たとえば、醍醐寺の座主、義演が記した『義演准后日記』には、表から広間、書院、奥座間と、南東から北西に雁行して連なっていた旨が書かれており、それぞれ現在の大広間、黒書院、白書院に該当すると考えられる。
家康や秀忠の将軍宣下は、広間で行われたことがわかっている。広間、すなわちいまの大広間は、将軍が座る一段高い一の間(上段の間)と、諸大名が並ぶ一段低い二の間の上下段2部屋に分かれているが、家康による創建時には、上中下段の3部屋に分かれていた。しかし、部屋の規模そのものは変わっていないと思われる。

現在見られる狩野派による鮮やかな障壁画や華麗な欄間彫刻は、主として寛永の行幸に合わせて制作されたものだ。二の丸御殿は長押と天井とのあいだの壁面まで障壁画で埋め尽くされ、極彩色の欄間彫刻も随所にはめ込まれている。
このように部屋のすみずみまで徹底して飾りつける意匠は寛永期の御殿の特徴で、家康による創建時は、長押のうえには装飾されない漆喰の壁面が残り、格子の欄間が採用されるなど、もう少しシンプルな内装だった可能性が高い。
二の丸御殿の正門である唐門も同様だ。優美な曲線を描く唐破風の周囲が、黄金の飾り金具と極彩色の彫刻で埋め尽くされたこの四脚門は、寛永の行幸時の姿をとどめている。その際に創建された可能性もあるが、一方で、家康が建てた門を大きく改修した、という説もある。

いずれにせよ、ここに建つ門は家康時代から、二の丸御殿という儀礼の場をいっそう権威づけるために存在していたことには変わりない。
二条城は籠城の拠点としてとらえるなら構造が脆弱だが、家康および秀忠や家光にとって、軍事的に堅固な城ならほかにあった。あくまでも二条城は、禁裏の間近で朝廷および諸大名に将軍家の威信を示すための場。城門や櫓、失われた天守は将軍家の城に共通の意匠で飾られて武威を象徴し、御殿そのほかは絢爛豪華に飾られて権威の高さを印象づけた。
いわば天下を統べるに値する徳川家の武威と権威が象徴的に表現された城が二条城であり、家康が示したものを秀忠と家光が発展させた。したがって、二条城の美しさは、凝縮された「徳川イズム」がかもし出す美だといえよう。