美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第28回「いろはの㋗」――国芳、芳年、芳幾……幕末、明治を彩った「芳」の系譜

歌川国芳「源頼光公館土蜘作妖怪図」

平安時代の武将・源頼光は人ならぬものに対する武功で有名だ。渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武の「四天王」を従えて酒呑童子を討伐し、土蜘蛛を成敗。その物語は江戸の人々にはおなじみだった。上の錦絵は、病で伏せる源頼光を警護していた四天王たちの前に妖怪軍団現れたり、という場面。描いたのは歌川国芳で、天保141843)年3月ごろに売り出されたという。

一見、勇壮な「武者絵」だが、頼光の土蜘蛛退治があまりにも「おなじみ」だけに、江戸っ子たちは違和感をもったらしい。「後ろにいつもとは違う化け物がいるぞ」と。歯のないろくろ首、「當」とかかれた化け提灯……、「ひょっとして、これは何かの判じ物では」と「ナゾ解き」が始まったのである。

2年前の天保121841)年、老中・水野忠邦は「風紀をただす」ことを目的にした贅沢禁止令を出した。「天保の改革」である。水茶屋の禁止、華美な衣服の制限、歌舞伎や浮世絵などの娯楽への介入――日常に色々と制約を付けられて庶民は大迷惑をこうむった。だから「この絵は実は、それを暗に批判した『風刺画』ではないか」と思ったのである。「歯のないろくろ首」は「寄席出演を禁止された噺家」、「化け提灯の『當』」は富くじ禁止の象徴……四天王の右端にいる卜部季武の着衣には、水野忠邦と同じ「沢潟」の紋がある。病に伏せて眠っている頼光は、政治をすべて水野忠邦に任せ、世上のことを知ろうとしない十二代将軍家慶だろうか。そんな「ナゾ解き」が評判になり、この絵は売れに売れたのだった。

歌川国芳「蝦蟇手本ひやうきんぐら 三段目・四段目」
歌川国芳「近江の国の勇婦於兼」

「それもこれも、国芳という絵師が、世間を風刺する『戯画』のジャンルでも有名だったからでしょうね」と太田記念美術館の主席学芸員、日野原健司さんは話す。初代歌川豊国門下の国芳が名を挙げたのは数えで31歳の年、『水滸伝』の豪傑たちを描いた「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」のシリーズだった。以降、史実や物語の戦闘場面やヒーローの活躍をモチーフとした「武者絵」の世界で名を馳せる。「がしゃどくろ」で知られる「相馬古内裏」はあまりにも有名だろう。

とはいえ、国芳が描いたのは、そんな豪壮な世界ばかりだけではなかった。上の「蝦蟇手本ひやうきんぐら」は、ご存じ『仮名手本忠臣蔵』のパロディ。画面下部、「城明け渡し」の由良之助を演じているガマの顔は、成駒屋、中村歌右衛門に似せているのだろうか。国芳は洒脱ないかにも江戸っ子な性格だったらしく、好奇心にあふれ、新しい物好きでもあった。「近江の国の勇婦於兼」を見ていただこう。いかにも和風なお兼さんの隣で後ろ脚を蹴り上げている馬には、西洋画的なリアリズムな手法が使われている。世の中の流行、話題を題材にした作品も多い。「武者絵」だけでなく、「戯画」にも長け、「時代の流れに敏感」だった。そして、「新しい技法を追い求める」絵師としての矜持も持ち続けていたのである。

落合芳幾「東京日々新聞 百一号」

国芳は、きさくで親分肌だった。<其の日に得る所の画料は、その日に消費して嘗貯うるの意なく><言語はつとめて卑俗なる巻舌にて、私をワッチ、前をメエという類多し>などと飯島虚心氏の『浮世絵師歌川列伝』には書かれている。この師匠にしてこの弟子あり、というべきか、「江戸っ子国芳」の性格を慕って集まった数多くの弟子たちも鉄火肌の者が多かったようで、ほとんどが肌に墨を入れていたという。その中で<其の最も世に著われたるは、芳幾、芳年二人>(『浮世絵師歌川列伝』)だった。

「無残絵」の項目でも書いたが、「英名二十八衆句」という血みどろ絵の競作で名を挙げた芳幾と芳年だが、その後の歩みは対照的だった。<よく人物を画く、滑稽の才ありて、意匠頗る妙なり>と『浮世絵師歌川列伝』で評された芳幾は明治に入って、「世情のアラ」を面白おかしく、おどろおどろしく描く「新聞錦絵」で活躍する。師匠の「時代の流れに敏感」で「戯画」の名手だった部分を強く受け継いだのである。一方、同じ本で<夙に国芳の骨法を伝え得て、最も武者絵に長ぜり>と書かれた芳年は、西洋画、歴史画の技法を取り入れて、独自の世界を築き上げていく。<晩年の月百姿の錦画の如き、古人の未だ画かざる所を画く甚妙也>。「新しい技法を追い求める」姿は、葛飾北斎や勝川春亭らの先人や西洋画の技法を研究した国芳の絵師としての姿勢と重なって見える。

月岡芳年「月百姿 信仰の三日月 幸盛」

三枚続きの伝統的な武者絵は、歌川芳艶、芳員、芳虎ら「国芳一門」の「お家芸」となった。異色なのは、子供向きの浮世絵「おもちゃ絵」を得意とした歌川芳藤である。大のネコ好きだった国芳の「ちょっとかわいい」絵の感覚を受け継いでいるといえそうで、ほんわかとしたユーモアがある。「しん版猫のあきんどづくし」は、そんな特徴が良く出た一枚。「国芳のかわいい絵は、ここ10年、人気が上がっているんですよ」と日野原さんは話す。

歌川芳藤「しん板猫のあきんどづくし」

江戸末期から明治にかけて活躍した河鍋暁斎は少年時代、国芳の画塾に通っていた。「故あって」一門を去り、狩野派の画家、前村洞和に入門しなおし、洞和の師匠にあたる狩野洞白のもとで絵を学んだのだが、国芳の侠気と品行を心配した父親が、師匠を替えたのだともいう。ただ、暁斎自身は、幼いころ親しんだ国芳への敬慕の意も強かったようで、明治201887)年、数えで57歳の時に出版した回顧録『暁斎画談』には、国芳から絵を教わっている幼い暁斎自身の姿が柔らかいタッチで描かれている。狩野派と浮世絵の双方で画業を残した「奇想の画家」。怪奇趣味、反骨精神、諧謔性……、「画鬼」と称し、絵師としての腕を磨き続けた暁斎こそ、実は、国芳イズムを最も強く継承した絵師だったのかもしれない。

(事業局専門委員 田中聡)

河鍋暁斎「暁斎楽画 第四 極楽の文明開化」


美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】
江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。