美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第26回「いろはの㋨」――野に咲く花も空飛ぶ鳥も

日本人は花が好きである。その代表が桜だ。花は桜木人は武士。パッと咲いてパッと散る「潔い」姿に「刹那の美」を感じていたのだろうか。その桜を愛でる「花見」は、江戸時代から盛んだった。
東京・王子の飛鳥山は八代将軍徳川吉宗が18世紀前半、「享保の改革」の一環として整備した桜の名所だ。それまで桜、といえば「上野のお山」だったのだが、ここは寛永寺の境内だったので酒宴はダメ。ワイワイ騒ぎたい向きには、飛鳥山とか品川の御殿山とかの方が気楽だったそうだ。英泉の「江都飛鳥山花看之光景」を見ても、芸者(?)に三味線を弾かせて騒いだり、もろ肌脱いで踊るオジサンをやんやとはやしたてたり、大変な賑わい。他の花見客を驚かせるために、芝居や読本をもとにしたコント(茶番といいます)を仕込んだ連中もいたようで、滝亭鯉丈の滑稽本『花暦八笑人』、それを原作とした落語の「花見の仇討」などに、当時の雰囲気が描かれている。

花を愛でるココロは、「見る」ことだけに限らない。草花を栽培する「園芸」も、江戸の庶民に人気だった。椿、菊、万年青、楓……様々な植物の栽培が、江戸期を通じて流行したのである。「花や緑を植えた植木鉢を買ってきて、家の周りで育てて楽しむ。そういう文化が根付いていたようですね」と太田記念美術館主席学芸員の日野原健司さんは話す。中でも江戸後期から末期にかけて、人気を集めたのが朝顔だった。
もともと薬草の一種として中国から渡来した朝顔。鑑賞用の栽培が盛んになったのは、江戸時代に入ってからである。上に挙げた歌麿の「娘日時計 辰ノ刻」で左側の女性が持っているのが、現代の私たちにもおなじみの朝顔の花だ。19世紀、文化文政期以降には「変化朝顔」がブームになった。「いろいろな種類の朝顔を掛け合わせることによって、緑の葉にどんな模様が入るのか、どんな形の花が咲くのか。そういうマニアックな楽しみ方をしていたようです」と日野原さん。1865年、えんどう豆の栽培を通じてメンデルが「遺伝の法則」を体系化する前から、江戸の人々は自分たちの経験をもとに「品種改良」を楽しんでいたのである。

さて。もともと日本美術の世界には、中国から入ってきた「花鳥画」の歴史があった。狩野派や土佐派、琳派の様々な画家が様々な「花」とともに「鳥」や「虫」を描いている。浮世絵も例外ではない。花や鳥の姿に詩歌をあしらった一枚絵の版画は、19世紀以降、盛んに作られるようになったという。そして浮世絵の「花鳥画」の世界で腕を競ったのが、おなじみ葛飾北斎と歌川広重だった。
北斎の「花鳥画」の特徴は、とにかく描写が細かいこと。葉脈の隅々まで写実的に描き、鳥の姿もあくまでリアルだ。一方の広重は、切手にもなった「月と雁」のような詩情あふれる情景描写が得意。「風景画もそうなのですが、北斎に比べて広重は描き込みが少ない。あっさりと画面を構成し、場の雰囲気を醸し出すのがうまい」と日野原さんはいう。よく言われることだが、「北斎は理系、広重は文系」なのである。上に挙げた北斎の作品と下の広重の絵を比べていただければ、その違いが分かっていただけるかも。

何度も書いていることだが、浮世絵の「主流」は、「美人画」と「役者絵」だった。「『傍流』だった『花鳥画』を人気ジャンルに育て上げたのは、北斎と広重でした」と、日野原さんは説明する。「風景画」とともに「花鳥画」を広めた北斎と広重。2人が浮世絵にもたらしたものはやはり大きいのである。少し話はズレるが、広重が「風景」と「花」を一枚の絵に落とし込んだ「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」は、あのゴッホが感銘を受け、模写までした作品だ。
「花が好き」だった江戸の庶民が「花鳥画」を好むようになったのは、文化文政期より後、つまり江戸後期以降だった。ある程度、生活に余裕が出て、風雅な気持ちを味わいたい、という気持ちが人々の間にあったのかもしれない。大名や大商人、上流階級の床の間を飾っていた江戸琳派の酒井抱一や狩野派の絵師たちの描いた『花鳥画』。その雅な空気を庶民生活に向けてアレンジしたのが北斎や広重の『花鳥画』だったのかも。江戸の文化は、経済の発達とともに爛熟していったのである。
(事業局専門委員 田中聡)
江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。