美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第25回「いろはの㋼」――「ゐ」を食べるのはぼたん鍋

歌川広重「名所江戸百景 びくにはし雪中」

宗教上の理由から、昔の日本人は獣の肉を食べなかったと言われているが、例外もあったようだ。看板に書かれている「山くじら」とはイノシシの肉のこと。特に寒い冬の夜などは、「薬っ食い」といって鍋をつつき、体を温め、栄養を取った人も多かったらしい。「ももんじ屋」という獣の肉を食わせる店が、特に麹町あたりに多かったそうだ。

雪の日に七輪で咲く冬牡丹

川柳にも、こんなふうに詠まれている。イノシシの肉は牡丹、シカの肉は紅葉。

お袋の留守に紅葉を煮てくらひ

「牡丹」「紅葉」で何のことかわかったのだから、江戸の人たちにとって、肉食はそこまで遠いものではなかったようだ。上に挙げた広重の絵は、現在の銀座一丁目あたりにかかっていた比丘尼橋周辺の景色を描いたもの。「山くじら」の看板を出しているのは、獣肉を食べさせる「尾張屋」という店らしい。右手、イヌがたむろっている店は「十三里」とあるから「九里四里(くりより)うまい」焼き芋屋だろう。「〇やき」は「丸焼き」である。

歌川国貞(三代豊国)「當穐八幡祭」

100万人の人口を抱え、世界有数の大都市だった江戸。各地から様々な食材が集まり、庶民も外食をするのが当たり前だった。「蕎麦、寿司、天麩羅、鰻……浮世絵にも様々な食べ物が描かれています」と太田記念美術館主席学芸員の日野原健司さんはいう。「特に多く描かれているのは、屋台ですね。江戸時代には今でいうファストフードが発達して、街中では様々な屋台を見ることができました」。上の絵は、中村座で上演された『當穐八幡祭できあきはちまんまつり』を三代豊国が描いた芝居絵。夜なき蕎麦売りの屋台の内側が細かく描かれている。顔からすると蕎麦売りの役者は、八世市川団十郎のようである。

歌川国貞「遊廓の賑わい」

ファストフードだけではない。18世紀半ば頃には江戸に高級な料理茶屋も登場するようになり、平清や八百善といった名店が生まれる。吉原遊郭の客を目当てにした仕出し料理店も繁盛した。<中でも、喜の字屋という仕出し屋は、「台の物」と呼ばれる、大きな台の上に松や花などをあしらい、そのまわりに肴を盛りつけるという前代未聞のゴージャス料理で、後世まで語り継がれる有名店となった>と大久保洋子氏の『江戸っ子は何を食べていたか』には書かれている。

国貞の「遊郭の賑わい」で描かれているのが、そういう「台の物」だろう。この台ひとつで1分(1両の4分の1、現在でいえば3万円ぐらい)したそうだが、お値段の割にはあまり美味ではなかったようだ。見た目重視、だったのである。

歌川豊国「豊広豊国 両画十二候 四月」

「食」に対する「見栄」は、庶民にもあった。季節を先取りし、「初物」を口にするのは、江戸っ子の大きな自慢だった。その代表格が初鰹だ。

まな板に小判一両 初鰹

江戸初期の俳諧師、宝井其角はこんな一句を詠んでいる。1両は今の時代に換算すると12万円ぐらいだろうか。先ほどの『江戸っ子は何を食べていたか』には、文化9(1812)年、歌舞伎役者の三世中村歌右衛門が3両で初鰹を買ったエピソードが紹介されている。

初鰹 女房に小一年いわれ

こちらは江戸の川柳本、『誹風柳多留』から。見栄を張って初鰹を買ったのはいいが、あまりの値段に1年近くも奥さんからは愚痴られる。まあ、そんなシロモノが初鰹。だから、長屋の衆は一本の鰹を切り分けて「共同購入」したりもした。そんな様子を描いたのが、上の豊国の絵。ひと月もすれば、ピーク時の50分の1にまで値が下がったというが、それでも「初鰹」は縁起物。何となく浮き浮きした様子が伝わってくる。

とにかくお高い「台の物」や「初鰹」。「何てムダなことをしているんだ」と笑っているアナタ、21世紀のわれわれだって似たようなことをしていませんか? 高級クラブでドンペリを開けてみたり、ボージョレ―・ヌーボーをありがたがってみたり。そんな人はいませんか? 何度も書いていることではありますが、江戸っ子も今のわれわれも、何百年たってもニッポン人のやっていることはあんまり変わってないのである。

(事業局専門委員 田中聡)


美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】
江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。