<城、その「美しさ」の背景>第38回 名古屋城の三つの櫓 家康の好みがわかる巨大な現存櫓 香原斗志

大坂の豊臣家を牽制する要の城
数多くの城を築いた徳川家康が、生涯の最後に築いた決定版というべき城が名古屋城だった。慶長15年(1610)閏2月、西国を中心とした20家の外様大名に命じた天下普請によって築城工事がはじまると、早くも秋には石垣がほとんど積み上がり、同17年(1612)暮れに天守が完成。同20年(1615)2月に本丸御殿も落成した。
それをわずかにさかのぼる慶長19年(1614)10月、大坂冬の陣に向けて駿府城を発った家康は、名古屋城に立ち寄って陣容を整えている。じつは、この事実は象徴的で、家康が名古屋築城を決意した背景には、大坂の豊臣秀頼の存在があったと考えられる。

家康にとって大坂の豊臣家は、ずっと目の上のたんこぶだった。慶長5年(1600)、関ヶ原合戦で家康が総大将を務めた東軍が勝ったとはいえ、そもそもこの戦いは豊臣政権内部の勢力争い。東軍の勝利はけっして徳川の勝利ではなく、豊臣恩顧の大名たちがもぎとったものだった。
つまり、この時点での家康は、まだ豊臣政権内の最大実力者にすぎなかった。だからこそ慶長8年(1603)、征夷大将軍に叙任されて武家の棟梁および源氏長者というお墨付きを獲得し、それをわずか2年で嫡男の秀忠に譲って、権力を徳川家が世襲することを世に示した。それでも家康の心配のタネは消えなかった。
秀頼が成人したら関白になって豊臣政権が復活する、という思いが大坂方にはある。すでに70歳近かった家康は、自分の目が黒いうちはそれを阻止できても、自身の没後に豊臣恩顧の大名たちが大坂方につけば、秀忠の政権が維持される保証はない――。そういう不安にかられたようだ。家康にとって、それを防ぐための要になったのが名古屋築城だった。

絶対に攻め落とせない鉄壁の本丸
室町時代、尾張国(愛知県西部)の守護所があった清洲は、織田信長、豊臣秀吉、家康と権力者の変遷をへても尾張の中心だった。信長が居城を置き、秀吉の政権下でも織田信雄、福島正則という大物が入り、関ヶ原合戦後は家康が、四男の松平忠吉を52万石の大録で清洲に封じた。慶長12年(1607)、忠吉が28歳の若さで病没すると、家康は九男の義直を清洲城主に指名している。
もっとも、家康はそのとき8歳だった義直を駿府の自分のもとに置き、清州のことは付家老の平岩親吉に取り仕切らせた。そして2年後、義直が10歳になると、家康はみずから義直を清洲に連れていったが、このとき清洲城ではダメなので、あたらしい城を築く必要がある、と考えたようである。
たしかに、清州は尾張国のほぼ真ん中に位置し、京鎌倉往還と伊勢街道が合流して中山道にもつながる交通の要衝だ。しかし、城の敷地を五条川が横切っていて、発達する銃火器が中心の戦いに十分に対応できる縄張りができそうにない。さらには全体が低湿地である清洲では、万が一、大坂方が東海道を下ってきた場合、防衛しきれないと読んだようだ。
家康が代わりに選んだのは、かつて信長も住まわった古城がある那古屋だった。そこは熱田台地の北西に位置する適度な高台で、北側から西北側には広大な湿地が広がり、敵の大軍が侵入しにくい。

こうして築かれることになった名古屋城は、徹底した防御態勢が敷かれた。敵が攻めにくい湿地に接する北側に城の中枢部を配置し、南の平野部に二の丸、その外側に広大な三の丸が構えられた。仮に敵が外堀を超えて三の丸に侵入しても、ほぼ正方形の本丸までは遠く、本丸自体、西北の御深井丸、西南の西の丸など、広大な堀と石垣で守られた曲輪で厳重に守られている。
深い堀に囲まれた本丸単体の防備もきわめて厳重で、南に大手口、東に搦手口があり、それぞれが枡形を構成。そればかりか、これらの虎口の外側には、門を守るために堀で囲まれた馬出も設けられた。また、本丸の東北、東南、西南の隅にはそれぞれ、小規模な天守並みに大きな二重三階の櫓が、西北の隅には天守が建ち、それぞれが土塀ではなく多門櫓でつながれていた。

長屋式の多門櫓が高い石垣上に連なっていると、敵はまず侵入できない。一方、守る側は天候に左右されず屋内から攻撃でき、文字どおりの鉄壁だった。
本丸を囲む多門櫓は、明治24年(1891)の濃尾地震で大破したのち、取り壊されてしまい、史上最大の延べ床面積を誇った巨大な天守は、周知のとおり、昭和20年(1945)5月の名古屋大空襲で、本丸御殿などと一緒に焼け落ちてしまった。本丸の東北隅に建っていた櫓も同様に焼失したが、幸いにも2つの櫓がいまも本丸に残っている。
現在、江戸城にも駿府城にも、家康が築いた当時の建造物は残っていない。一方、これらの櫓は、家康が築いた当初の建築だと思われるので、なおさら貴重である。
家康好みの意匠と思われる3棟の現存櫓

西南隅櫓(かつての未申櫓)は、平側(軒に並行した長いほうの側面)が7間、妻側(軒に直角な短いほうの側面)が6間で、現存する丸亀城や宇和島城、弘前城の天守より規模が大きい。1階と2階は面積が同じで、そのあいだを仕切る腰屋根はないが、城内側には腰屋根があって事実上の三重櫓だと認識できる。

堀に面した2階部分には平側、妻側ともに出窓型の石落としが設けられ、この意匠は江戸城、駿府城、二条城、大坂城などの幕府系城郭に継承されていく。なかでも名古屋城のものは、出窓の屋根が凝っている。西南隅櫓の出窓はともに入母屋屋根で飾られ、とくに妻側は入母屋に軒唐破風が重ねられている。また、二重目(3階)の窓の上下が長押型で飾られ、アクセントになっている。

東南隅櫓(かつての辰巳櫓)も、床面積は西南隅櫓と同じだが、意匠が異なる。平側と妻側の双方に出窓型の石落としが設けられているのは同じだが、こちらは平側が入母屋屋根なのに対し、妻側は切妻屋根で、平側はその入母屋屋根の上部、二重目(3階)の屋根が軒唐破風で飾られている。


ちなみに焼失した東北隅櫓(かつての丑寅櫓)は、平側に切妻屋根の出窓型石落としを2つ並べていた。こうして小さな天守並みに大きな二重三階櫓の意匠を少しずつ違えて、視覚的な変化がつけられていた。たんに防御力を強調するだけでない、将軍家の城としての美的な矜持が感じられる。そして、その一端をいまも鑑賞できるのである。
ところで名古屋築城に際し、家康は大胆な決断をしている。清洲の町を名古屋にそっくり移すことにしたのである。こうして慶長15年(1610)には「清洲越し」が開始され、武士や町人約6万人が名古屋に引っ越し、67の町と約100の寺社も移動した。
その際、清洲城天守も移築されたと伝えられ、現存する西北隅櫓(かつての御深井丸戌亥櫓)がそれに該当すると考えられている。

これは名古屋城唯一の三重三階櫓で、1階が平側8間、妻側7間とかなり大きい。そして柱などに、以前は木材が接合されていたと思われる仕口が、いくつも空洞のまま残されているので、移築された建物であることが確実視されている。
ただし外観は、上階に向かって床面積をバランスよく逓減させるあたらしい層塔型で、一重目(1階)の屋根に出窓型石落としがつくなど、最新の幕府系城郭の意匠に合わせている。だから、清洲城の部材を使って大きく改造されたと考えられるが、言い方を変えれば、旧式の清洲城天守の外観を、家康好みの意匠に変えたものが現存している、ということでもある。
紹介した櫓は3棟とも、国の重要文化財に指定されていることを、最後に付記しておきたい。