美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第24回「いろはの㋒」――美しい女性は、いつの世も「絵になる」ものなのです

鈴木春信「おせんの茶屋」(東京国立博物館蔵)(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-3951?locale=ja)

ニッポンの芸能の歴史は、アイドルの歴史でもある。

江戸川大学の西条昇教授からそんな話を聞いたのは、いつのことだっただろうか。明治、大正期に大流行した女義太夫には「どうする連」という熱心なファンがいて、物語が佳境に入ると「どうする、どうする」とはやし立てていたという。大正期に一世を風靡した浅草オペラにも「ペラゴロ」がいて、人気歌手が登場すると歌舞伎の大向こうのようにかけ声をかけたものだそうだ。今で言う「ヲタ活動」の源流は、100年以上前からあったのだ。

江戸時代だって例外ではない。アイドル人気の対象になったのは、主に有名妓楼の花魁や売れっ子芸者とだったのだが、時にそれは街中の「普通の女の子」にまで及んだ。明和年間、1760年代後半に、人気を集めたのが「笠森お仙」である。

谷中・笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた茶汲み女のお仙ちゃんが鈴木春信の美人画に描かれたのは、明和5(1768)年ごろだったという。現代風に言えば、喫茶店のウェートレスである。それが当代一流の絵師のモデルになったのである。現代で言えば、「普通の女の子」が篠山紀信氏のような有名カメラマンに見いだされ、一流雑誌の巻頭グラビアを飾る、という感じだろうか。お仙ちゃんの美しさは江戸中の評判になり、彼女見たさに笠森稲荷の参拝者が急増、「お仙グッズ」も販売された。

「大田南畝のような文化人の間でも彼女の存在は話題になりました」と太田記念美術館の主席学芸員、日野原健司さんは話す。お仙ちゃん人気にあやかってか、同様の「シロウト娘」のブームがにわかに巻き起こった。浅草・奥山の楊子屋「柳屋」のお藤、二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」のおよし、この2人が、お仙ちゃんと併せて、「明和の3美人」といわれるようになったのである。

喜多川歌麿「高名美人六家撰 難波屋おきた」(東京国立博物館蔵)(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-530?locale=ja)

「明和の3美人」のブームを作ったのは、先ほども書いた通り、春信の絵だった。当代最先端の風俗を描く浮世絵は、当代最先端のメディア。「役者絵」や「美人画」は、人気者のブロマイドだったわけである。「そこで描かれた看板娘たちは、江戸の人々にとって『身近』で『会いにいける』アイドルだったんでしょうね」と日野原さんはいう。「ただ、この時の『看板娘』のブームは、短期間で終わりました」ともいう。お仙ちゃんが突然、お武家さんと結婚して、ファンの前から姿を消したのがひとつのきっかけかもしれない。

シロウト娘のブームが再燃したのは、それから約四半世紀後、天明から寛政にかけての時代だった。「寛政の3美人」といわれたのが、浅草の水茶屋「難波屋」のおきた、両国薬研堀のせんべい屋「高島屋」のお久、富本節の名取・豊雛である(豊雛の代わりに芝神明前の水茶屋「菊本」のおはんが入ることもある)。この3人を描いた絵師が、喜多川歌麿。ちょうどこの頃、美人画は「大首絵」の時代に入っていて、バストアップの絵が多く描かれた。

「ただし、この時のブームも長くは続きませんでした」と日野原さんはいう。「寛政の改革で、お上から美人画に遊女以外の名を記すことが禁じられたのです」。遊女・芸者といった「プロ」はともかく「一般市民」である町娘がメディアに登場することは「身分不相応であり、ゆゆしきものだ、と為政者側は考えたのでしょう」とも説明する。「名前を書かなければいいのだろう」ということで、歌麿は絵の中に「どこのだれか」を暗示するサインを入れる「判じ絵」も描いたのだが、これもやがて「ダメ」になる。浮世絵における「街のアイドル」のブームは、老中・松平定信の「改革」で水を差された。

溪斎英泉「今様美人拾二景 気がかるそう 両国橋」

実際に、お仙ちゃんやおきたはどんな顔をしていたのか。浮世絵を見ていても、それはちょっと分からない。当時の美人画は、ある種の記号として女性の顔を描いているからだ。大田南畝はお仙ちゃんとお藤を比べて、「お仙は素肌美人、お藤は化粧がうまい」というような事を書いているが……。「当時の美人画は『理想美』を重視していて、『本人そっくり』に顔を描くことはあまり重視していませんでした」と日野原さんはいう。「重要視していたのは髪の毛をいかに美しく描くか、どんなアクセサリーを付けていたか、ということ」。確かに浮世絵の髪の毛の描写は細かい。「うまい彫り師は、1㎜の中に5本の髪の線を彫っている」といわれるほどだ。

「理想の顔」は、時代によって変化する。春信描くお仙ちゃんや歌麿描くおきたは、おっとりと品がいい、雅な感じがする美人だが、江戸後期の美人画の名手、溪斎英泉の「今様美人」は、やや受け口で目付きもちょっとキツい。いかにも「お侠(きゃん)」な感じなのである。ちなみに下唇が緑色になっているのは、19世紀前半、文化文政期の流行。「笹色紅」といわれる高価な紅をたくさん塗ると玉虫色に発色して、まるで緑色を塗っているようにも見えたのである。下唇の緑色は、紅にお金をかけている証しであり、その色が出ることがひとつの「見栄」でもあった。

歌川芳艶「当世物語嘘真 稽古所の嘘言」(個人蔵)

「看板娘」以外にも、「会いに行ける」アイドルはいた。小唄、都々逸、義太夫、長唄……街のそこここに、音曲などを教える「お師匠さん」がいたのである。若くてきれいなお師匠さんの「稽古所」に通って、あわよくば「いい仲」になってやろう、と思っている男衆、古典落語では、この人たちを「あわよか連」と呼んでいる。芳艶の描く「当世物語嘘真 稽古所の嘘言」を見ると、お師匠さんたちもそこは海千山千で、そういった連中をうまく操っていたようだ。「街のアイドル」となんとか仲良くなろうと、慣れぬ音曲に取り組む「あわよか連」。その丸めた背中には、何だか時代を超えた哀愁があるような気もするのである。

(事業局専門委員 田中聡)


美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】
江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。