美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第23回「いろはの㋰」――無惨やな……

むざんやな甲の下のきりぎりす
松尾芭蕉が北陸路、小松(現在の石川県小松市)を訪れたのは、元禄2(1689)年7月24日のことだった。翌25日、多太八幡宮神社に詣でた芭蕉が斎藤別当実盛の兜や鎧を拝観し、詠んだのがこの一句である。勇壮に戦った悲劇の武将・実盛。だが今は、その兜の下でコオロギが鳴くばかり。世の無常、「もののあはれ」を感じさせる名句なのである。
この句が収録された「おくのほそ道」を芭蕉が上梓した一世紀半あまり後、浮世絵の世界に現れたのが「無惨絵」だった。ただこちらは、「もののあはれ」とは裏腹の、どぎつく凄惨な「血みどろ絵」。その代表的な作品が慶應2(1866)年から3(1867)年にかけて刊行された「英名二十八衆句」のシリーズだ。
描いた絵師は、落合芳幾と月岡芳年。芝居や講釈などの残虐な場面を画題にして、それぞれ14枚を担当している。今見てもなかなかに「エグい」作品がそろっており、上に挙げた「因果小僧六之助」など、中では本当に「オトナしい」部類なのだが、それでも人を斬った刀に浮かぶ血脂の凄みには思わずギョッとさせられる。

どうしてこのような「無惨絵」が生まれたのか。
「同様の感覚の絵は1850年代から描かれていました」というのは、太田記念美術館の主席学芸員・日野原健司さんだ。上に挙げたのは、芳幾、芳年の師匠、国芳が嘉永7(1854)年に描いた作品。『敵討天下茶屋聚(かたきうちてんがぢゃやむら)』という芝居を題材にしたものだ。「この時代、こういう『芝居絵』で、伝統的な記号的表現からリアルな描写へと手法が変わりつつあったんです」と日野原さんは説明する。
「例えば、『忠臣蔵』の『六段目』に、『勘平腹切り』という有名な場面があるんですが、三代豊国(国貞)などはわざと血のりが目立つような絵を描いています」
幕末。江戸文化が爛熟した時期。絵師たちは西洋画の技法を知り、よりリアルな表現を模索し始めていた。少し前から歌舞伎では、庶民の暮らしを生々しく描写した鶴屋南北の「生世話物」が人気を集めていた。地震が起き、黒船が来航する。時代は大きく動き始め、世情は混迷化しつつあった。
人々の価値観が変わる時、エキセントリックでセンセーショナルな「血みどろ」のエンターテインメントが流行するのは、どの時代、どの世界でも変わらない。19世紀末のフランスで生まれたグラン・ギニョール、1960年代のアメリカから派生したスプラッター映画……恐怖、不安、そして哄笑……そこで描かれる「物語」には、変わりゆく「世界」と対峙する人々の深層心理が反映されているようにも思うのである。

「英名二十八衆句」の後、「無惨絵」の担い手となったのは、芳年だった。慶應3(1867)年には講釈で語られる物語を題材にした「東錦浮世稿談」、明治元(1868)年から2(1869)年にかけては南北朝から戦国時代までの武者を扱った「魁題百撰相」を版行する。しかし後者は《実は明治元年(慶応四年、一八六八)五月十五日におこった上野戦争(明治政府と彰義隊の戦い)を評したものである》と、2019年から2022年にかけて名古屋市博物館など7美術館を巡回した「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」展の図録は記す。芳年は上野戦争の現場を取材し、弟子とともに現地で写生を行ったという。《芳年としてはこのシリーズで、歴史ではなく身近で起きた戦いの現実を伝えたかったのだろう》と図録では続ける。
「英名二十八衆句」のもうひとりの作者・芳幾は、「無惨絵」で培ったリアリズム、センセーショナリズムを違う形で発展させた。明治5(1872)年、東京日々新聞の発起人となった芳幾は、同紙の記事を元に「新聞錦絵」を作り始めたのである。実際にあった「事件」や「奇談」を、時には面白可笑しく、時にはセンセーショナルに描き出す。その手法は、今で言えば写真週刊誌に近い、といえるだろうか。その後、芳年はひとりの絵師として絵を描き続け、芳幾は「平仮名絵入新聞」や雑誌「歌舞伎新報」の発行に関わっていく。「無惨絵」を創り出した2人の絵師は、それぞれの足取りで「明治のリアル」と向き合っていったのである。

「上野の戦争」を目撃した芳年は、「『血みどろ』な描写を抑えるようになった印象があります」と日野原さんはいう。「生死の境で戦った人々の姿を見て、何か思うところがあったのでしょうか」。明治18(1885)年の「奥州安達が原ひとつ家の図」など、この後もファンタスティックでエキセントリックな作品を得意とした芳年だが、美人画や歴史画、風俗画など、その扱う画題は広がっていった。その到達点といえるのが、晩年に描いた100枚にも及ぶ「月百姿」だろう。
歴史上の人物、物語のヒーローなどを月とともに描いたこの連作は、「血みどろ」というよりも「静謐」な空気を醸し出す。下の絵は、その中の一枚。ここで描かれているのは、敵討ちに向かう曾我兄弟の弟、五郎時致だ。刀を抜き、緊迫感が漂う中で、ふと月と鳥を見る。覚悟を決めた男だけが醸し出す一幅の清涼感。「無惨絵」で一世を風靡した芳年は、最後の最後で「むざんやな」と世の中を諦観する境地に達したのかもしれない。
(事業局専門委員 田中聡)

江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。