<城、その「美しさ」の背景>第37回 駿府城 家康と生涯を共に 江戸をもしのぐ“首都”の象徴

家康による2回の築城
徳川家康は生涯の重要な局面で2回、駿府城を築いた。はじめは天正13年(1585)で、すでにこの時期、家康は三河(愛知県東部)、遠江(静岡県西部)、駿河(静岡県東部)、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)の5カ国を領有し、一方で、豊臣秀吉に臣従していた。
だが、秀吉と対峙する可能性がゼロではないことを考えると、それまで長く居城にしていた浜松城よりも領国の奥に移って、秀吉との距離を確保したほうがいい――。そういう考えがあったと思われる。また、武田の遺臣が多い甲斐をまとめるには駿府のほうが地の利がいい、ということもあっただろう。

家康の家臣であった松平家忠の『家忠日記』に、駿府築城の様子が比較的細かく書き残されている。それによると、天正13年7月に工事がはじまって、翌14年(1586)12月4日、家康は浜松から駿府に移住している。最終的に城が完成したのは、同17年(1589)4月だという。
また、『家忠日記』の「堀普請候」「石とり候」「石かけ候」「てんしゅのてつたい普請」「小傳主てつたい普請」「石くら根石すへ候」といった記述から、この時期の駿府城は石垣が積まれて堀で囲まれ、大小の天守が建ち、天守台には石蔵が存在したことなどがわかる。

だが、当時の駿府城の様子は、のちに記す発掘調査での発見を目にするまで、それ以上の詳細がわかっていなかった。そして、城が完成してわずか1年余り、小田原征伐で北条氏が滅ぶと、家康は北条氏が治めていた関東に転封となってしまう。駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入封した。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、駿府城には家康の異母弟とされる内藤信成が入った。だが、慶長10年(1605)に将軍職を、わずか2年ほどで嫡男の秀忠に譲った家康は、自分の隠居城に駿府城を選んだ。もっとも隠居とは名ばかりで、家康のねらいは大御所として自由な立場で政権を運営することにあり、そこからしばらくのあいだ、駿府は事実上の日本の首都になった。

毛利輝元、前田利長、細川忠興、池田輝政ら、全国の錚々たる大名たちに、工事の負担が割り当てられ、慶長12年(1607)2月から急ピッチで築城が進められ、7月には本丸が完成。その後、三重の水堀をめぐらせた輪郭式の平城が竣工した。ところが、その年の12月に失火によって本丸が全焼してしまう。ふたたび諸大名に命じて工事が再開され、翌慶長13年(1608)8月に天守の上棟式が行われ、全体は同15年(1610)3月に完成した。
ところで、家康が駿府への築城にこだわった理由には、万が一、大坂の豊臣方と戦うことになった場合、関東よりも手前で防御して江戸を守る、という意図があったことはまちがいない。

出土した2つの天守台
その後の駿府城は地震などの自然災害に数多く見舞われ、宝永4年(1707)の地震で石垣の多くが大破。さらに安政元年(1854)の大地震では、城内の石垣や建物の大半が崩壊したため、現在、当初の姿のままで残されている石垣は少ない。しかし、城を三重に囲んでいた水堀のうち、二の丸を囲む二の丸堀(中堀)はほぼ残され、三の丸を囲む三の丸堀(外堀)も、東側と南西部分が埋められているほかは、比較的よく残る。
ただし、明治29年(1896)、城跡に陸軍歩兵第34連隊が置かれると、本丸堀(内堀)は埋め立てられてしまった。内堀の北東隅には、安政大地震で破損してはいたものの巨大な天守台があったが、それも崩されて内堀を埋める土砂にされてしまった。
石垣上端の平面が東西約48メートル、南北約50メートルと、史上最大規模だったこの天守台は、平成28年(2016)8月から令和2年(2020)3月の発掘調査で出土し、令和4年(2022)3月までの整理作業をへて、現在、間近で眺めることができる。

また発掘調査では、大御所家康が慶長期に築いた天守台内側から、東西約33メートル、南北約37メートルの天守台も発見された。慶長期の天守台は、一定程度加工された石垣が積まれ、隅角部は直方体の石の長辺と短辺を交互に積み上げた算木積みなのに対し、この小規模な天守台は自然石をあまり加工せずに積んだ野面積みで、算木積みも成立していない。このため、天正期の天守台だと考えられる。
家康の関東移封後、中村一氏が手を加えた可能性はあるが、家康が原型を築いたことにまちがいないだろう。また、今回の発掘では今川氏の館の遺構も見つかっている。駿府城天守台はさながら、今川氏の人質になって以降の、家康の人生の節目を象徴する場所のようだ。事実、家康は元和2年(1616)4月17日、この駿府城で死去している。
天正期の天守台に関しては、周囲から大量の金箔瓦が出土し、これが家康の手になるものか、中村一氏が豊臣系の大名として導入したものか、意見が割れている。一方、慶長期の天守は、『当代記』のほか『慶長日記』、『増補慶長日記』などの記録で、その姿をある程度再現できる。

巨大な天守台は四隅に櫓が建てられ、大天守は天守台の中央に建っていた。平側(軒に並行した長いほうの側面)が12間、妻側(軒に直角な短いほうの側面)が10間で、5重6階もしくは6重7階。『当代記』によると1階と2階に欄干がつく御殿風の天守だったようで、上階は残された絵巻によると下見板が張られていたようだ。最上階の屋根には銅瓦が葺かれ、また、軒先瓦には金箔が貼られ、金の鯱をいただいていた。
東海道から東方に天守を眺めると、富士山を借景にした華麗な姿を眺められたという。むろん、家康は幕府の威厳につながるその光景を意識していたに違いない。
大御所が住んだ城の威厳
家康が死去してのち、寛永元年(1624)に二代将軍秀忠の次男、徳川忠長が城主になったが、同8年(1631)に改易され、その後の駿府は幕府の直轄領となり、城代および副城代格の城番が置かれた。
そんな折、寛永12年(1635)に城下で発生した火災が駿府城内に燃え広がり、御殿や櫓などとともに天守も焼失。しかし、東照大権現が住んだ城を荒廃したままにするわけにはいかない。幕府はすぐ修復にとりかかったが、天守は再建されず、そのまま明治維新を迎えることになった。
大御所、すなわち死後の東照大権現が住んだ城。その威容は、たとえば大手門枡形の石垣にも見られるが、端的に感じられるのは、まずは再建された東御門と巽櫓だろう。

二の丸の南東角、重要な虎口である東御門脇に平成元年(1889)に復元された巽櫓は、平面がL字型の2重3階の櫓で、寛永12年の大火で焼失後、同15年(1638)に再建されたが、安政大地震で全壊したと考えられている。それが江戸時代中期の修復記録などをもとに、伝統工法で復元された。
また、平成8年(1996)には、二の丸への主要な出入口であった東御門も、伝統工法により寛永15年の姿で復元された。高麗門をくぐると方形の空間があり、鍵状に曲がって櫓門の下をとおる枡形門で、枡形の3面が櫓門および多門櫓で囲まれ、鉄壁の防備を固めている。さすがは将軍家の城にふさわしい。
二の丸西南隅の坤櫓も、同様に安政大地震で倒壊後、再建されないままだったが、平成26年(2014)に伝統工法で復元され、かつての威容がよみがえった。2重3階で、1階と2階は同じ大きさで、階のあいだの腰屋根が省略され、2階に出窓型石落としをもうけている。名古屋城の西南隅櫓、東南隅櫓と同じ様式で、将軍家の城で同じ意匠が継承されたのがわかる。

これら復元建造物はいずれも白漆喰総塗籠で、規模も大きく、駿府が江戸をしのぐ政治や経済、そして文化の中心地だった時代をしのばせる。圧倒的な権力によって天下泰平を守ろうとする静謐さをたたえた美、といえばいいだろうか。