【探訪・徳川家康】第4回 今川氏真はなぜ西の掛川へ逃げたのか?

徳川家康(1542~1616年)が天下人に登りつめるまでの道のりを、令和の今もたどることができる古戦場や旧跡、史跡などを探訪するシリーズ。久しぶりの4回目は、「どうする家康」の第12話「氏真」で、武田信玄から駿府を攻められた今川氏真が落ち延びて籠城した遠江の掛川城(静岡県)について紹介します。なぜ、氏真はこの地を選んだのでしょうか?
平成に甦った木造天守閣
掛川城天守閣は、新幹線から見えるお城として有名ですが、1854年(嘉永7年)、いわゆる「安政の大地震」で倒壊。絵図などから平成6年(1994年)に木造で復元されました。2022年6月から大規模修理のため入ることができなくなっていましたが、4月1日に再開しました。奇しくもこの日、元駿府の静岡市で開かれる静岡まつりに、大河ドラマで今川氏真を演じる溝端淳平さんが登場し、その取材会があったので、その前に掛川城を訪れました。
同盟の北条側ではなく西に逃げた氏真
1560年(永禄3年)、氏真の父・義元は桶狭間の戦いで戦死します。今川家は、駿河(静岡県中部)・遠江(静岡県西部)・三河(愛知県東部)の3か国を支配していましたが、徳川家康(松平元康)をはじめ三河や遠江で今川から離反するものが相次ぎました。
今川は、甲斐の武田、小田原の北条と、婚姻関係による「甲相駿三国同盟」を結んでいました。しかし、今川の弱体化を見た武田信玄は1567年(永禄10年)、氏真の妹と結婚していた嫡男の義信を死に追いやり、武田・今川同盟を破談させます。この年、今川から武田に送る塩が止められており、これが「敵に塩を送る」のことわざが生まれるきっかけになります。
翌1568年(永禄11年)12月、信玄は駿河へ侵攻。氏真も信玄の攻撃を予想して迎撃しようとしましたが、家臣の駿河衆が寝返り、氏真は信玄と戦わずに、今川館(のちの駿府城)を放棄し、掛川城へと退却しました。
この際、氏真の妻(大河ドラマでは糸)で北条氏康の娘が、徒歩での逃避行を強いられたことに氏康が激怒したことや、すぐに氏真へ北条の援軍を送ったことが当時の史料からも分かります。
そうすると、なぜ氏真は頼りになる同盟相手の北条氏に近い東ではなく、家康と信玄に挟撃される可能性のある西の掛川に逃げたのでしょうか?
掛川城を築いた朝比奈3代
遠江の要衝である掛川城は、井伊など遠江地元の国衆の城ではありません。駿河から遠江に侵攻した今川家の重臣の朝比奈氏が15世紀末に、今川の遠江支配の拠点として築いたものです。それから約70年に渡り、朝比奈3代(泰熙、泰能、泰朝)が治めてきました。
氏真の時は、朝比奈泰朝ですが、遠江の国衆が反今川の動きを見せる中、のちの家康の四天王として名高い井伊直政の父、井伊直親を見せしめとして、掛川城で殺害しました。氏真は、親族(一門)扱いだった家康から「裏切られ」、妹が嫁いだ武田から裏切られ、地元中の地元の駿河国衆からも裏切られ、絶体絶命の状態で、誰が信頼できるかと考えたときに頭に浮かんだのが、朝比奈泰朝という一人の男だったのでしょう。

実際、掛川城の氏真と朝比奈泰朝は、家康の完全包囲を受けながら、1569年(永禄12年)5月に家康と和睦し開城するまで、半年間も持ちこたえたのです。
(読売新聞デジタルコンテンツ部 岡本公樹)
参考「掛川城家康読本 vol.02」(掛川市観光交流課発行)、大石泰史編『今川氏年表 氏親 氏輝 義元 氏真』(高志書院)
◇掛川城天守閣 掛川城御殿
木造復元された天守閣内部と、ふもとの二の丸にある江戸時代後期の現存する数少ない城郭建造物「掛川城御殿」(重要文化財)では、掛川城の歴史を学べる展示も。入館料410円。


◇掛川市二の丸美術館
平成10年(1998年)に、天守閣復元に感激した掛川市出身の実業家木下満男氏から施設建築費と、たばこ道具や刀装具の美術工芸品のコレクションの寄贈を受けて開館。実業家の鈴木始一氏の近代日本画コレクションなども収蔵。

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