<城、その「美しさ」の背景>第36回 伊賀上野城 ケタ外れの高石垣と「未完」が映す時代の移り変わり 香原斗志

東側から見た模擬天守

大坂の豊臣秀頼に備える家康の生命線

伊賀上野城(三重県伊賀市)を築いたのは藤堂高虎だが、築くように命じたのは徳川家康で、それも家康にとっての生命線のような城だった。

南側から眺めた高石垣

天正13年(1585)から、伊賀国(三重県東部)は筒井定次が治め、伊賀上野城を築いて三重の天守を構えていた。しかし、筒井氏は慶長13年(1608)に改易され、代わりに伊予国(愛媛県)から加増のうえで、伊賀、伊勢、そして伊予の一部に移封になったのが藤堂高虎だった。

筒井家改易の理由としては、家臣団の抗争などが挙げられているが、大坂の豊臣秀頼に備えるうえで重要な伊賀に、厚く信頼する高虎を置きたかった、という家康側の事情もあったと考えられる。

すでにこのときまでに、家康は伏見城や二条城(ともに京都府)のほか、膳所城(滋賀県)、彦根城(滋賀県)、駿府城(静岡県)と、大坂を包囲するように城を築いてきた。だが、家康自身が本能寺の変後、滞在先の堺(大阪府)から「伊賀越え」によって浜松に逃げ帰ったように、伊賀国は畿内から東国に行く際の重要ルートのひとつだった。

だからこそ築城の名手の高虎に、伊賀越えのルートを封じ、いざとなれば家康自身も籠城できるような堅固な城の築城を命じたものと思われる。事実、『高山公言行録』には「大坂表は非利においては大御所(家康)は上野の城へ引き取り、大樹秀忠公は江州彦根の城に入らせたまうべし」と記されている。

高虎は慶長14年(1609)に丹波篠山城(兵庫県)の縄張りを担当し、同15年に丹波亀山城(京都府)の天下普請や天守の建築(移築)に関与し、大坂包囲網のさらなる整備に携わったのち、同16年(1611)から伊賀上野城の、ほとんど新築と呼べる大改修に着手した。

本丸から見下ろした高石垣

その際、筒井時代の本丸よりも西方に城域を大きく拡張し、あたらしい本丸に東西13間、南北11間の巨大な天守台を築き、その西側には内堀に面して高石垣をめぐらせた。

大坂城に匹敵する圧倒的な高石垣

この高石垣はほぼ30メートルと、築かれた当時は日本一の高さを誇った。一定程度の加工をほどこし規格化された築石を積み上げた「打込みハギ」で、隅角部は直方体の石を長辺と短辺がたがい違いになるように積み上げた「算木積み」の完成形が見られ、高度な技術で積まれたことがわかる。

この石垣を前にしたら、攻撃する側は意気を喪失するしかなかっただろう。また、横矢をかけられるように、2カ所にわたって塁線が張り出している。防御上の配慮だが、美観のうえでも大きなアクセントになっている。

北側から眺めた高石垣

ちなみに、日本一の高石垣は大坂城本丸東面の約32メートルで、続いて大坂城の南外堀とこの伊賀上野城が、約30メートルでほぼ並んでいる。だが、大坂城は豊臣家が滅亡したのち、徳川家の威信をかけて豊臣大坂城を上回る規模で築かれた城。それと同じ規模の高石垣だという事実に、伊賀上野城に対する家康の要求の高さがうかがい知れる。

また、天守台の石垣も、同様に打込みハギと算木積みで積まれ、整った美しさを見せている。そのうえには五重の天守が建てられた。『公室年譜略』によれば、1階から最上階まで同じかたちの構造物を、少しずつ小さくしながら積み上げる層塔式だった。

ところが、慶長17年(1612)9月2日、竣工間近の天守は暴風雨のために、5重目の屋根を噴き終えたところで倒壊。作事奉行の平松喜蔵が墜落死したほか死傷者が多数出て、その後、明治を迎えるまで、この天守台に天守が建てられることはなかった。

現在建っている3重3階の大天守と2重2階の小天守は、史実にもとづかない模擬天守で、サイズも天守台より一回り小さい。ただし、昭和10年(1935)に木造で建てられたこの天守、すでに歴史的建造物のような趣があるのも事実である。

西側から見た模擬天守

伊賀上野出身の代議士だった川崎克が天守復興を提唱し、私財を投じて建てたもので、川崎は「攻防策戦の城は滅ぶ時もあるも、文化産業の城は人類生活のあらん限り不滅である」という理想を掲げ、この天守を「伊賀文化産業城」と名づけた。内部もすでに現存天守のような雰囲気をかもし出してはいる。

模擬天守の最上階

異例なほどの未完成に終わった理由

しかし、伊賀上野城は未完である。元和元年(1615)に豊臣氏が滅亡すると、大坂に備える必要性が失われたため、城の普請は中断され、さらには武家諸法度によって城郭の現状変更が、原則として禁じられたため、未完成のまま明治を迎えることになった。

城代屋敷の外周は空堀が

このため、本丸西側にこれほどの高石垣が築かれながら、筒井時代に本丸が置かれていた本丸東方の周囲は、ほとんど筒井氏の築城当時のままかと思われる空堀がめぐらされ、石垣は築かれていない。ここまで露骨に未完成なのは、日本の城のなかでもかなり極端な事例だといえる。

元和元年(1615)6月、武家諸法度に先立って一国一城令が発布されたが、伊賀上野城は残された。藤堂藩の本城は伊勢国(三重県東部)の津城だったが、上野城は伊賀国の城であるため、同じ藩内の2番目の城として残されたのだ。

城代屋敷を囲む石垣

しかし、藩主は津城にいるので伊賀上野城には城代が置かれ、城内の最高所である筒井時代の本丸跡に城代屋敷が建ち並んでいた。いずれにせよ、藩内の2番目の城だから余計に、その後、完成させる必要性は失われたといえる。

城代屋敷跡。建物跡が石で示される

現存建造物は多くない。三重県立上野高校の敷地内に、手当蔵(武器庫)が当時のままの位置をたもって残っているのが、いわゆる城郭建築では唯一の現存例だ。広く城内の建造物なら、10代藩主藤堂高兌が文政4年(1821)に設立した藩校、崇廣堂に、長屋門や講堂、玄関棟をはじめ多くの建造物が残っている。

藩校、崇廣堂の講堂

伊賀上野城は、異例なほど未完であることが目立つ。しかし、だからこそ本丸西側の高石垣が、なおのこと輝いて見える。残念なのは、この威圧的な存在感と、均整のとれた美しさがバランスされた、日本一と呼んでも過言ではない石垣の斜面に灌木が生い茂り、石垣を傷めていると思われること。そして、対岸に木々が生い茂り、この稀有な石垣を眺めにくい点である。

高石垣の向こうに天守。だが、木が茂りすぎて

文化財保全の観点からも、その価値を広くアピールするためにも、植物への対策をほどこしてほしいと願わざるをえない。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『教養としての日本の城』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。