美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第19回「いろはの㋡」――「蔦重」ってどんな人?

北尾重政・勝川春章『青楼美人合姿鏡』

今まで何度も触れたことだが、浮世絵は「分業体制」で制作された。版下絵を描く「絵師」、版木を彫る「彫師」、版木を使って錦絵を摺る「摺師」……。それぞれが工房を持ち、とてもシステマチックな形で仕事を行われていた。 どんな錦絵を作るのか。どのくらいの枚数を摺って、いくらで売るのか。それを決めるのは「版元」の仕事。つまり、「版元」は「出版業者」であると同時に、「プロデューサー」だった。そして江戸時代、浮世絵業界で最も有名なプロデューサーが、蔦屋重三郎、通称「蔦重」である。

寛延3(1750)年、旧暦正月七日生まれの「蔦重」、生地は江戸・吉原である。家族・親族のほとんどが「廓者」だったという「蔦重」にとって、遊郭・吉原は文字通りのホームグラウンド。「蔦重」が世に出るきっかけになったのも、吉原の仕事だった。

《安永3(1774)年、重三郎が満24歳になったその年、版元・鱗形屋孫兵衛の吉原細見の「改め」および「卸し」「小売り」の業者となった》

2010年にサントリー美術館で開催された展覧会「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」の図録で、法政大学元総長の田中優子氏は記している。「吉原細見」とは、簡単に言えば吉原の「ガイドブック」。「改め」とは情報を収集し、それをもとに編集作業を行うこと。鱗形屋は黄表紙本のブームを創り出した江戸根生いの版元である。今風に言えば、老舗の出版社から「吉原ガイドブック」の編集・販売を請け負ったわけだ。

「この『細見』が評判になって、『蔦重』は頭角を現すことになりました」

太田記念美術館の主席学芸員・日野原健司さんはいう。「細見」は「この店にはこういう名前の花魁がいる」という目録のようなものだが、「道を挟んで両側にある店が『にらみ合う』ような形にレイアウトを変更することで、コストを下げるとともに、より読者が見やすい本にしたのです」という。上の画像は安永5(1776)年、勝川春章と北尾重政という大物絵師が合作した版本『青楼美人合姿鏡』。吉原の遊女たちの姿を多色摺りで描いたもので、「蔦重」は、この本の「企画プロデューサー」。山崎金兵衛という版元から資金提供を受けて共同出版した。ビジュアルの価値を熟知していた「蔦重」だからこその「花魁の売り出し方」だろう。

喜多川歌麿『潮干のつと』

吉原は、単に「色を売る」場所にとどまらなかった。「文人、粋人が集まる社交場であり、文化の発信地でした」と日野原さんはいう。そこで生まれ育った「蔦重」は、そんな「文化サロン」に積極的に出入りした。当時は狂歌が大流行しており、御家人の大田南畝らがブームの中核を担っていたのだが、彼らの狂歌を集めた「狂歌本」も「蔦重」は多く手がけた。

「今で言う同人誌的な世界なのですが、これによって『蔦重』は狂歌師などの知識人のイメージアップに貢献しました」と日野原さんは説明する。「『吉原細見』のヒットも、下降気味だった吉原遊郭の人気を盛り返す一助になりました」ともいう。浮世絵というメディアをどう活用するか。「細見」や「狂歌本」での経験を通じて、「蔦重」は学んだのだろう。上に挙げた『潮干のつと』は、朱楽漢江あけらかんこう36人が参加した狂歌会での歌を集めた狂歌本。挿絵は、若き日の喜多川歌麿。「蔦重」の狂歌本に多く起用され、そこで名を上げた。

喜多川歌麿「冨本豊ひな」

松平定信による「寛政の改革」が始まった天明7(1787)年は、江戸文化のひとつの転換点になったようだ。風紀取り締まりが厳しくなった「改革」の時代、江戸の「文化サロン」から御家人などの武士階級が離れていったのである。大田南畝は一時引退して役人の仕事に専念することになったし、秋田藩士だった黄表紙本作者の朋誠堂喜三二は藩から止筆を命じられた。この結果、19世紀以降の江戸文化は完全に町人階級が主導することになる。「改革」による「取り締まり」は、武士階級だけにとどまらなかった。黄表紙本でもヒット企画を次々に送り出していた「蔦重」も「出る杭は打たれる」ことになった。

寛政3(1791)年、「蔦重」が刊行した山東京伝の洒落本3種がとがめられ、「蔦重」は「身上半減」(財産の半分を没収)、京伝は「手鎖50日」の処罰を受けたのである。世間への「みせしめ」に近いこの処分の後、江戸の出版界は一挙に自粛ムードになったというが、プロデューサー「蔦重」は、ただ転んではいなかった。

東洲斎写楽「中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と中村此蔵の船宿かな川やの権」

浮世絵の王道は「美人画」と「役者絵」。「蔦重」は「美人画」で喜多川歌麿、「役者絵」では東洲斎写楽を世に送り出したのである。歌麿は「役者絵」の世界で試み始められていた「大首絵」を美人画の世界に持ち込み、花魁や芸者などだけでなく、水茶屋の看板娘などの「街のアイドル」をも題材にしていった。その美人大首絵が出現するのは、《身上半減後の寛政四年(一七九二)のことである》と前述の図録で田中優子氏は書く。一方の写楽は寛政6(1794)年、28枚の「大首絵」を豪華な黒雲母摺くろきらずりで同時刊行する。業界ではまったく無名の新人だったこともあり、華やかなデビューは衝撃的だった。歌麿の作品は江戸っ子の支持を得て、その名前は「美人画」の代名詞のようになる。役者の欠点までもリアルに描き出した写楽の「役者絵」は、同時代的評価は必ずしも高くなかったものの、後年、欧米での高い評価が「逆輸入」され、今ではその存在を知らない美術ファンはいない。

「蔦重」は寛政8(1796)年に病床に就き、翌寛政9(1797)年、享年48でこの世を去った。江戸の「エンタメ業界」を駆け抜けた名物男。晩年、逆境の後の「名プロデュース」は、浮世絵の歴史の中で大きな光を放っている。

(事業局専門委員 田中聡)


美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】
江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。