<城、その「美しさ」の背景>第35回 唐津城 モン・サン・ミッシェルさながらの海城 香原斗志

松浦川の対岸から眺めた唐津城

肥前名護屋城から建築資材を運び

 

フランスのノルマンディー地方にあるモン・サン・ミッシェルが、山裾の石垣を海に洗われているのはよく知られている。これは修道院だが、要塞として使われたこともあり、城壁に囲まれた事実上の城塞都市だから、「城」と呼んでも差し支えない。

 

じつは日本にも、海や湖に飛び出した海城や水城は少なくなかったが、残念ながら、そのほとんどは明治以降、その周囲を埋め立てられてしまった。当時の人たちに、それが無二の美しさをたたえた文化財だという意識がなかったことが惜しまれる。

 

そんななか、いまも海岸から直接、石垣がそびえ立ち、その裾を海水が洗っている数少ない日本の城のひとつが唐津城である。

現存する数少ない海城である唐津城。海水が石垣を洗う

平安時代以来、この地では松浦党武士団が大陸貿易などで活躍した。だが、その流れを汲む波多氏は、朝鮮出兵(文禄の役)での失態を豊臣秀吉に問われて改易されてしまう。その後、唐津一帯は一時的に秀吉の直轄領になると、側近のひとりの寺沢広高が旧波多領の代官に指名され、慶長2年(1597)か同3年に、正式に唐津藩主となった。

 

その後、関ヶ原合戦で東軍に属した広高は、戦後、西軍の将で処刑された小西行長の旧領のうち天草4万石を加増され、123000石の大名になって、慶長7年(1602)に唐津城(佐賀県唐津市)の築城に着手。慶長13年(1608)に完成させている。

 

その際、松浦川と波多川(いまの徳須恵川)という2本の川の河口を1本にまとめる大工事を行い、洪水が頻発していた低湿地を豊かな水田地帯にする礎とした。そして、松浦川が唐津湾に注ぐ左岸の、湾に突き出た標高43.7メートルの満島山に唐津城を築き、広大な松浦川を東側の天然の堀としたのである。

 

山上の最も高い位置に本丸、一段下に二の曲輪が置かれ、山麓には細長い腰曲輪がめぐらされ、腰曲輪の石垣が海水に接している。また西側には二の丸、さらに西側に三の丸が配置された連郭式の城だった。

本丸へと続く石段と石垣

また、築城に際しては、豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点にした肥前名護屋城(佐賀県唐津市)から材木を運んだと伝えられる。おそらく海路を使ったのだろう。事実、『松浦要略記』には「名護屋御城の道具、材木残らず御引取なされ候」と記されている。

 

天守があったという記録はない

 

ところで、松浦川を改修して水田を開発する際、潮風が問題になり、松浦川対岸の海岸沿いに防風林が整えられた。いまも「虹の松原」として約4.5キロ、幅500メートルにわたって100万本の黒松が群生し、水田を潮風から守るとともに、唐津市の観光資源にもなっている。

 

満島山を中心に、この松原の背後にいただいた右岸の砂浜、それから左岸の砂浜が、ちょうど鶴が翼を広げた姿に似ているため、唐津城には舞鶴城の別名がある。

本丸側から眺めた模擬天守

この呼称については、誤解している人も多いかもしれない。現在、山上の本丸の南西隅にある天守台には、5重の天守がそびえている。白亜のこの天守は、たしかに鶴のようにも見えるので、舞鶴城の名はこの天守に由来するのではないかと。

 

だが、じつは、唐津城に天守があったという記録はない。築城当初にあった可能性を完全に否定することはできないが、記録にも絵図にも天守の存在は示されていない。一方、寛永4年(1627)に記された『幕府隠密探索書』には、すでに天守がないことが記され、その後に作られた絵図にも、もちろん天守は見えない。

 

現在の天守は昭和41年(1966)、観光のために桃山風の外観を意識して建てられた鉄筋コンクリート造の模擬天守である。具体的には、『肥前名護屋城図屏風』に描かれた、名護屋城の天守がモデルになっている。だから、満島山の山裾を固めた石垣を波が洗い、海城の美観が保たれているのに、史実を反映しない高層建築が山上にそびえ、歴史的景観に傷をつけているといえなくもない。

 

だが、発想を変えるなら、そこに寺沢広高の夢を眺めるということだろうか。これだけ大きな天守台を築いた以上、天守を建てる計画はあったに違いない。満島山の頂上に高層天守がそびえる光景は、広高の頭のなかには描かれていたはずである。

模擬天守から日本三大松原として知られる景勝地「虹の松原」を望む。寺沢広高もこうした絶景をイメージしていたのだろうか。

天守が建ったまま石垣の解体工事

 

また、平成20年(2008)からの難工事が成功し、ほかの城にも応用できそうだ、という朗報がもたらされたのは、この天守台に天守が建っていたからこそ、ではある。

 

唐津城の天守台石垣は、前面にふくれ出る「はらみ」などが生じ、石材にもひび割れなどの劣化が見られていた。昭和の模擬天守を建てる際は、石垣の修復という発想はなかったようだが、その強度は不安視されていたようで、16本のコンクリート基礎杭で天守を支え、天守台の石垣には重量が一切かかっていなかった。

 

このため、天守をそのまま残したまま、石垣を積みなおす工事が可能になったのである。上部の建物はそのままに石垣を解体する工事は全国初だったが、石垣は無事に積みなおされ、天守は平成29年(2017)、リニューアルオープンした。

積み直された天守台と模擬天守

その際、副産物も得られている。天守の下から古い石垣が発見され、石垣裏の盛り土からは豊臣政権と関係が深い金箔瓦も出土し、今後、唐津城の築城年代がさかのぼる可能性も出てきた。すると、今日とは形状が異なる本丸に、天守が建っていた可能性も見えてくるかもしれない。

 

ところで寺沢氏は、広高の子の堅高のとき、天草領が島原の乱の震源になった責任を問われて、天草の4万石を没収され、挙句、正保4年(1647)に堅高が自殺して改易に。その後の唐津城は幕末まで、大久保氏、松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏と、代々譜代大名が城主を務め、西国大名への監視の目を光らせた。

早稲田佐賀中学高校の敷地になっている二の丸御殿跡

二の丸にあった藩主の御殿跡は現在、早稲田佐賀中学高等学校の敷地となっているが、周囲の石垣は残る。また、二の丸と三の丸を区切る堀が残り、三の丸と外堀を区切る肥後堀が復元されるなど、見どころは多い。

 

だが、あらためて強調するが、海に突き出したモン・サン・ミッシェルさながらの姿は、いまの日本では唯一無二である。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『教養としての日本の城』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。