美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第16回「いろはの㋟」――旅は道連れ、世は・・・・・・

浮世絵は、「風俗」を描くものとして始まった。だから、時代ごとの「ファッション・リーダー」であり、「スター」である役者や芸者、遊女や相撲取りが画題の中心で、「役者絵」と「美人画」が、浮世絵の「主流」だったのである。土地ごとの名所旧蹟を描いた「名所絵」もジャンルとしては古くからあったのだが、どちらかといえば「傍流」の立場だった。
「風景画」が「主流」の画題に入ってきたのは、19世紀以降である。「葛飾北斎、歌川広重という2人の絵師が、このジャンルを人気にしました」と太田記念美術館の主席学芸員、日野原健司さんは話す。北斎が「冨嶽三十六景」を刊行したのは、天保2~5(1831~34)年、広重が「東海道五十三次内」を発表したのも天保5(1834)年ごろである。大胆な構図でダイナミックに風景を切り取る北斎、「見たまま」の風景を旅情たっぷりに描く広重。好対照の2人が、「風景画」を発展させたのだった。
なぜ、19世紀に入って「風景画」が求められるようになったのか。「理由はふたつ、考えられます」と日野原さんはいう。
「経済的に裕福になった町人たちが文化の中心となって、自分の居住地以外の興味が増大したことがひとつ、もう一つはある滑稽本の大ヒットです」
享和2(1802)年から文化11(1814)年にかけて刊行された「滑稽本」とは十返舎一九の『東海道中膝栗毛』である。神田に住む弥次郎兵衛と喜多八が、「お伊勢参り」の旅に出る。剽軽者の2人が東海道を上っていく道中で起こす珍騒動を面白可笑しく描いたものだ。あまりの好評に『続膝栗毛』も制作され、2人の旅、つまり「弥次喜多道中」は、四国は金比羅、中国地方は宮島にまで及んだ。

「この作品が、庶民の『旅』に対する興味を、より大きくしたと言えるでしょう」と日野原さんは話す。「名所絵」は観光案内のようなもので、宿場ごとの歴史などをまとめた旅行ガイドブック「名所図会」も江戸初期からあった。だが、北斎、広重の時代まで、浮世絵で「旅」そのものにスポットがあたることは「あまりなかった」と日野原さんはいう。「風景画」の確立は、「旅を描く」ことにもつながったのである。上に挙げた作品は、「東海道五拾三次」の一枚だが、宿場町で強引な客引きにあう旅人の姿がユーモラスに描かれている。
次に挙げた「東海道中栗毛野次馬」は幕末の1860年ごろ、戯作者の仮名垣魯文が一九の「膝栗毛」にオリジナルのエピソードを加えて脚色、落合芳幾が作画した錦絵シリーズの中の1作だ。弥次さん北(喜多)さんは、「水口」で妖怪たちに会ってびっくり仰天しているようで、弥次さんのアタマの上には、作家・京極夏彦氏がフィーチャーしたことで有名になった「豆腐小僧」の姿もある。魯文は明治に入って『万国航海 西洋道中膝栗毛』という滑稽本も出版(ちなみに芳幾は、ここでも挿絵を描いている)しており、「膝栗毛」の人気と影響がどれだけ大きかったかがよく分かる。まあ、21世紀の今、令和の時代になっても、歌舞伎座で松本幸四郎と市川猿之助が「弥次喜多道中」のシリーズを上演しているのだから、「むべなるかな」というところかもしれない。

「面白いのは、直接『膝栗毛』をモチーフにしていなくても、旅を描いた絵の多くは、男2人の道中ものになっている、ということですね」
日野原さんは付け加える。下の絵は、北斎が東海道の旅の様子を描いたものだが、確かにこちらも「弥次喜多」的な2人のオジサンのスケッチになっている。オジサンたちは、広重の絵の中でも活躍する。団子を食べたり強風にあおられたり、旅の途中で出くわす様々な物事が細かく描かれているのだ。「富士山」や「滝」などの「自然」とともに、「旅」そのものも、町人文化の成熟と歩調を併せて、浮世絵の重要なモチーフになっていった。

2人連れの「おかしな旅」がヒットしたのは、浮世絵の中ばかりではない。ハリウッド映画華やかりし頃の映画「珍道中」シリーズ、ニューシネマの時代の「イージー・ライダー」や「俺たちに明日はない」などの「ロードムービー」・・・・・・。何かの理由があって旅に出る2人、見知らぬ土地で遭遇する数々の事件、そしてそこで知る人の情や世の無常。どんな時代、どんな国でも、旅は人々の心に物語を思い起こさせる。旅は道連れ、世は情け――そんな言葉も浮かんでくるのである。
(事業局専門委員 田中聡)
江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。