<城、その「美しさ」の背景>第34回 岐阜城 宣教師も驚愕のスケール、「見せる」ために築いた信長

信長が築いた桁外れの居館の実態
織田信長が永禄6年(1563)、美濃国(岐阜県南部)を攻めるために築き、本拠地にした小牧山城(愛知県小牧市)は先進的な石づくりの城で、巨石を積み上げ、訪れた人を畏怖させる「見せる」ための城だった。
その後、永禄10年(1567)8月に稲葉山城の斎藤龍興を攻め落とし、目標だった美濃を手中にした信長は、早速、居城を小牧山城から稲葉山城に移転。「井の口」とよばれていた城下を「岐阜」と改名し、それからは城も岐阜城とよばれるようになった。
戦国大名が領土を広げるたびに居城を移した例は、信長と、事実上その傘下にあった徳川家康以外に、ほとんど見られない。ましてや、攻略したばかりの敵方の城をすぐに自分の居城にするなど、当時としては異例中の異例で、前例にとらわれない信長らしさの表れだといえよう。

標高329メートル、比高300メートルの金華山上に築かれているのが岐阜城の特徴で、山全体が天然の要害だが、いたるところ岩盤が飛び出ている山上は、政務を行うには不便なこときわまりない。このため信長は、城主の館は山麓に置くという二元構造を踏襲し、山上と山麓のどちらにも石垣を導入しながら、大規模な改修をほどこした。
最初に、西山麓一帯に広がる信長の居館跡を見たい。江戸時代の絵図に「千畳敷」と記されていたこの谷筋の居館跡は、昭和59年(1984)にはじめて発掘調査が行われ、長さ3メートル近い巨石を並べ、敵がまっすぐ侵入できないように喰い違いにした虎口が見つかった。以後、平成19年(2007)から29年(2017)まで4次にわたる調査が行われ、信長らしい桁外れの居館の実態がわかりつつある。

この調査は、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが『日本史』などに記した内容を証明する結果になった。そこでまず、永禄12年(1569)に信長みずからの案内でこの居館を見学したフロイスの記述を紹介したい(松田毅一、川崎桃太訳)。フロイスが「自らの栄華を示すために他のすべてに優ろうと欲しています」と評した信長の居館とは――。
「宮殿は非常に高いある山の麓にあり、その山頂に彼の主城があります。驚くべき大きさの加工されない石の壁がそれを取り囲んでいます」
発見された、巨石が並ぶ喰い違いの虎口のことである。フロイスの記述を追おう。
安土城につながる4階建ての宮殿建築
「第一の内庭には、劇とか公の祝祭を催すための素晴らしい材木でできた劇場ふうの建物があり、二本の大きい影を投ずる果樹があります。広い石段を登りますと、ゴアのサバヨのそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、そこから市の一部が望まれます」
「内の部屋、廊下、前廊、厠の数が多いばかりでなく、はなはだ巧妙に造られ、もはや何もなく終わりであると思われるところに、素晴らしく美しい部屋があり、その後に第二の、また多数の他の注目すべき部屋が見出されます。私たちは、広間の第一の廊下から、すべて絵画と塗金した屏風で飾られた約二十の部屋に入るのであり、(中略)これらの部屋の周囲には、きわめて上等な材木でできた珍しい前廊が走り、(中略)この前廊の外に、庭と称するきわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、その完全さは日本においてははなはだ稀有なものであります。(中略)下の山麓に溜池があって、そこから水が部屋に分流しています」
「二階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。部屋には、その周囲を取り囲む前廊があり、市の側も山の側もすべてシナ製の金襴の幕で覆われていて、そこでは小鳥のあらゆる音楽が聞こえ、きわめて新鮮な水が満ちた他の池の中では鳥類のあらゆる美を見ることができます」
「三階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に精選されたはなはだ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅であります。三、四階の前郎からは全市を展望することができます」
発掘が進むにつれ、山麓の居館の様相は次第に明らかになり、これらの記述が裏づけられた。居館の中心は喰い違いの虎口のすぐうえに置かれ、底に玉石を貼りつけた池も見つかった。また、左右の谷筋がひな壇に造成され、最下段から最上段までの高低差は30メートル程度。また、中央にはいまも山から谷川が流れ込んでおり、その両岸には巨石が折り重なっているが、これは信長が護岸した石垣が崩れたものと考えられる。

そして、谷川の北側では、大きな池をもうけた庭園が見つかった。この池には、背後にいまもそそり立つ岩盤から滝が流れ落ちるようになっていた。岐阜市は今後、滝が流れ落ちる池を再現すべく計画を進めている。

また、注目すべきは4階建ての宮殿の存在で、これはのちの安土城天主につながる建築であったのは明らかだろう。発見された金箔瓦からも、それが裏づけられる。
山上で見つかった信長時代の天守台と瓦

山麓の居館跡は近年、整備が進み、事前にフロイスの記述を読むなどして訪れれば、信長ならではの人の度肝を抜く絢爛たる美に、思いを馳せることができるだろう。
では、山上部はどうだろうか。ロープウェイで山上に登り、登城路を進むと一の門を通る。自然の岩盤の周囲に巨石が転がっているが、往時は岩盤と石垣が組み合わされていて、齊藤道三時代にさかのぼる可能性が高いという。次いで二の門も、同様に石垣が積まれている。

そこから先、天守台にいたる尾根筋は、とくに東側に信長時代のものと考えられる高石垣が二段に分けて築かれている。当時は石垣構築技術が未熟だったので、セットバックをもうけ二段に分けて積んだのである。

天守台には現在、昭和31年(1956)7月に鉄筋コンクリート造で復興された天守が建つが、この建物には歴史的根拠は存在しない。だが、令和2年(2020)からの発掘調査では、信長が築いた可能性が高い天守台の石垣が見つかり、信長の家臣団の城で見つかった瓦と酷似した瓦も出土。最初に天守台を築いたのが信長である可能性が高まった。
フロイスも山上を訪れた体験を「この前廊に面した内部に向かって、きわめて豪華な部屋があり、すべて塗金した屏風で飾られ、内に千本、あるいはそれ以上の矢が置かれていました」と書く。そこから、信長が山上にも絢爛たる建物を構えていたことが明らかで、これが天守だったのだろうか。ただ、高層建築だったのかどうかはわからない。

山上に高層建築を建てたのが明らかなのは、天正12年(1584)から同18年(1590)に城主を務めた池田輝政だ。その後、慶長5年(1600)8月、信長の孫の織田秀信が城主のとき、関ヶ原合戦の前哨戦で池田輝政や福島正則に攻められ、岐阜城は落城。翌年、徳川家康が廃城と決め、建造物や石垣は、家康の命であらたに加納城(岐阜市)を築くための部材にもちいられ、輝政の天守が、加納城の御三階櫓になったと考えられている。
山上部はここ数年、あらたな石垣の発見も相次ぎ、信長時代の華麗な姿を想像する楽しみが増している。非常にエキサイティングな城である。