<城、その「美しさ」の背景>第33回「佐賀城」 懐古趣味に彩られたユニークな意匠 香原斗志

だだっ広い水郷に築かれた「沈み城」
佐賀城は「沈み城」と呼ばれることがある。ほかの城は、遠く離れるほど天守などがそびえて見えるが、佐賀城は遠望しても、周囲の林に隠れてなにも見えなかったからだという。ほかに、敵に攻められたとき、周囲の水路などを遮断して城の周囲を水浸しにし、湖水に浮かぶようにする仕組みだったから、という説もある。
佐賀平野は有明海の後背地に広がるが、有明海は5.5~6メートルという日本一の干満差があって、海岸には年々堆積が繰り返される。いきおい後背地の排水性は悪くなるので、用水路と排水路を兼ねたクリーク(堀)を無数にめぐらせる必要があった。網の目のように配されたクリークは、現在も総延長2000キロ以上におよぶという。
こうして結果的に水郷になった平野の真ん中に築かれた平城なので、佐賀城は「沈み城」となったのである。
佐賀城の歴史は、平安時代以来、佐賀平野に勢力を誇った龍造寺氏の本拠、村中城にさかのぼる。だが、戦国大名として勢力を拡大した龍造寺隆信は天正12年(1584)、島津家久と有馬晴信の軍に敗れて戦死。以後、龍造寺氏の実権は一族の鍋島直茂に奪われる。
そして関ヶ原合戦後、正統な佐賀藩主として認められたのち、直茂は村中城を改修。こうして近世城郭としての佐賀城が整備されることになり、次の勝茂の代の慶長16年(1611)に、15間×13間という巨大な天守台に、4重5階の天守も完成した。
城は約700メートル四方で、外堀の幅は50~70メートルにもおよぶ。中枢部である本丸と二の丸は、この方形の城域の南東に位置し、そこだけ独立した方形の島が堀に浮かんだような様相だった。
湿潤な平野の真ん中で石材の入手が困難だったため、石垣が本格的に築かれたのは本丸の西側と北側だけだった。そのうえ、方形を組み合わせただけの単純な縄張りだったが、往時は城内にもクリークが複雑に張りめぐらされ、きわめて攻めにくい城だったようだ。
また、埋め立てられた東側をのぞけば、外堀はよく残されている。広大な水堀越しに、かつての「沈み城」を思い浮かべることは、いまも十分に可能である。

2度の大火ののちに再建された鯱の門の特異な美
だが、完成した佐賀城はその後、いくたびも火災を経験することになった。享保11年(1726)、城下で発生した火災が城内に飛び火し、本丸、二の丸、三の丸がほぼ全焼。天守も焼失し、本丸に残った建物は土蔵だけだったという。
再建工事は翌年からはじまったが、その際、失われた本丸はそのままにされ、天守は二度と建てられることがなかった。そして二の丸を中心に整備され、以後、藩政機能の中心は新築なった二の丸御殿に移った。
ところが、天保6年(1835)にふたたび大火災が発生し、二の丸が全焼。それを受けて藩主の鍋島直正は、100余年ぶりに本丸を再建すると表明し、建設に着手。同9年(1838)に本丸御殿が竣工し、以後、明治維新を迎えるまで藩政機能は本丸に置かれた。
本丸を再建した際に、その表門として建てられた鯱の門が現存し、国の重要文化財に指定されている。呼び名の由来が、屋根の両端に載る青銅製の鯱にあるこの門は、それを見るためだけ佐賀城を訪れる価値があるほど、特異な美しさを帯びている。
まず、袖石垣にはさまれた城門の間口が、全国最大級というほど大きい。間口の中央には大門が、その両脇に小門があり、さらにその両脇には格子窓がついているが、この格子窓は門の両側にもうけられた板敷きの番所の窓。大門、小門、格子窓という配置のバランスはいいのだが、ここは本丸の正門という防御のうえで重要な設備。その正面両脇に格子窓が開けられている例など、ほかの城にはない。

また、門の上の渡櫓がおもしろい。城門の渡櫓はたいてい、下部の城門よりも前後に張り出していて、前に張り出したところに石落としをもうけるのが一般的だ。ところが、鯱の門の渡櫓は城門よりも後退しているので、石落としはない。また、渡櫓が後退しているぶん、門扉が風雨にさらされるので、通常よりもかなり大きく張り出した腰屋根をつけている。

この腰屋根が大きすぎ、窓の位置が高くなってしまったので、渡櫓の内部は窓の位置に合わせて床が張られている。このため、渡櫓は1重なのに内部は2階になっているのだ。
だが、斬新なのかと思えば、渡櫓の外壁は柱型や長押型を見せた真壁で、その柱のうえには寺院建築などにもちいる船肘木が置かれ、軒下は白木のままであるなど、非常に古風である。
また、正面に向かって左側は、石垣が前方に大きく突き出し、そのうえに続櫓が建てられている。この続櫓も櫓門同様に1重2階で、2階部分は3方向に出格子窓がつく、非常に個性的な外観だ。さらに、石垣の端部よりも内側に建ち、周囲に70センチほどの犬走ができているのもユニークだ。

復元された本丸御殿と戻された御座間
では、鯱の門の特異な外観を、どう理解したらいいだろうか。ひとつは、太平の世の建築らしさだろう。門の両側に格子窓をもうけている点も、渡櫓が後退していて石落としを開口できない点も、防御を第一に考えるなら問題がある。続櫓の周囲の犬走も、敵に侵入するための足場をあたえているようなものだ。
しかし、200年以上も戦争から遠ざかっていた天保期の再建である。防御より見栄えを優先するのも当然といえば当然だ。柱型や長押型を見せた古風で品格のある外壁も、同様に見栄えにこだわった結果だろう。ただし、こうした古風な壁面は、元来は城が実戦に供していた時代に採用されていたものだ。
すなわち、太平の世の発想で、懐古趣味も交えながら見た目を重視した結果が、鯱の門だけの美しさにつながっているといえる。とはいえ、佐賀城は明治4年(1871)、佐賀の乱に際して江藤新平らに攻められているのだが。その際の弾痕がいまも、鯱の門のあちこちに残っている。

また、現在、本丸には鍋島直正が再建した本丸御殿の約3分の1、2500平方メートルほどが、木造で復元されている。本丸御殿は大正期まで残っていたので、複数の古写真があった。ほかに発掘調査の結果や江戸時代の絵図や記録などをもとにして、元来の位置に正確に、遺構を保護しながら再建したという。

だが、じつは、すべてが再建というわけではない。昭和32年(1957)まで小学校の作法室として使われ、その後、移築されて公民館になっていた御座間が、復元された御殿に組み込まれるかたちで旧位置に戻された。全国でも貴重な御殿の遺構もまた、佐賀城では鑑賞できる。
