美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第15回「いろはの㋵」――吉原は「ありんす国」と申します

礒田湖龍斎「雛形若菜の初模様 若那や内しら露」

遊郭・吉原は、江戸の住民からしても別世界だった。

言葉からして違う。「あります」は「ありんす」、「します」は「しんす」。様々な地方からやって来た遊女たちが、「お国言葉」で困らないように、と工夫したものだという。だからこそ、日常生活とはちょっとちがった風俗や規則がある吉原には、「ありんす国」という別称があったのだった。

「江戸時代の吉原は、単に『色を売る』場所ではありませんでした」と話すのは、太田記念美術館の主席学芸員、日野原健司さん。「そこは文化人・趣味人が集まる社交の場であり、そこから様々な流行が生まれていったのです」。18世紀の半ば頃、武士も町人も、身分を超えて吉原に集い、そこで作ったネットワークが、黄表紙や洒落本などの流行につながっていたのである。ちなみに黄表紙は、絵と文で世の中を笑い飛ばす、現代の漫画のようなもの。洒落本は吉原での恋の駆け引きなどを描写しながら、そこでの作法を教授する「遊郭遊興ガイド」的な内容だった。

喜多川歌麿「青楼十二時 戌ノ刻」

黄表紙も洒落本も、挿絵を描いていたのは、喜多川歌麿、北尾政演(戯作者の山東京伝)など、当時人気の浮世絵師たちだった。吉原のどの店にどんな花魁がいるかを事細かくリストアップしたガイドブックを『吉原細見』という。その出版で知名度を挙げたのが、蔦屋重三郎(17501797)。通称「蔦重」というこの江戸の名物男は、洒落本や狂歌本などのヒット作を次々に刊行、喜多川歌麿や東洲斎写楽などの浮世絵師をも世に出した、今で言えば大プロデューサーだ。その足跡はまた別の機会に詳述するが、「ガイドブック」制作で知見・人脈を広げ、それを生かして版本・浮世絵という「メディア」で大成する、「蔦重」の歩みこそが、遊郭・吉原の江戸文化における位置を象徴しているようにも思えるのである。

溪斎英泉「浮世四十八手 うわきにまよわせる手」

そんな吉原は、浮世絵にとっても初期から重要な画題であった。なにしろ、浮世絵の「本流」は「美人画」と「役者絵」。そして「美人画」のかなりの部分は、吉原の花魁を描くことに費やされているのである。

「一枚絵を出版してもらえれば、その遊女を抱えている店の大きな宣伝になりますからね。役者絵と歌舞伎の関係と同じように、美人画でお抱えの花魁をどのように描いてもらえるかは、店にとっての重要な『メディア戦略』でした。スポンサーとして出版資金を提供するケースもあったようです」と日野原さんは話す。花魁の立ち姿を描く一枚絵は「現代で言えば、アイドルのグラビアのようなもの」と日野原さん。そこで描かれた花魁の着物の柄、アタマにさすかんざし、身の回りの小物などは、最先端のファッションとして注目された。礒田湖龍斎の「雛形若菜の初模様  若那や内しら露」は、まさにそんな美人画。新造(見習いの遊女)や禿(遊女になるための“勉強中”の少女)を引き連れて歩いている花魁が華やかで、鮮やか。

歌麿の「青楼十二時 戌の刻」で描かれているのは、なじみのお客に手紙を書いている花魁の姿だろうか。「ちょっとプライベートな姿」を出していくことによって、観る者に親近感を感じさせるという手法は、現代のグラビアでもおなじみだろう。英泉の「浮世四十八手 うわきにまよわせる手」。江戸後期、妖艶で意志が強そうな「都会の女性」の姿がここにはある。

喜多川歌麿『青楼絵本年中行事』

遊郭・吉原のまたの名は「苦界」。そこに身を売る女性には、それぞれの人生の理由があり、そこには深い悲しみも人には言えない痛みも存在する。「スター」として錦絵に姿を現す美女は、その中のほんの上澄みなのである。吉原の中でも「羅生門河岸」といわれる最下級の妓楼に勤める遊女の生態を描いているのが、古典落語の『お直し』だ。着物の袖を無理矢理引っ張られて、片袖をちぎられて店に連れ込まれた客の姿を、羅生門で渡辺綱に腕を切られた鬼に例えている。悲哀と苦境の隣り合わせにある笑い。昭和の名人、古今亭志ん生師匠の名演を聞きながら、「浮世絵の光」の裏にある「闇」に思いをはせるのも「リアルな江戸」を知るにはいいかもしれない。

(事業局専門委員 田中聡)


美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】
江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。