美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第14回「いろはの㋕」――海外でも人気、葛飾北斎

世界で一番有名な浮世絵、それはきっとこの「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」だろう。
荒れる海、翻弄される小舟。その向こうに屹立している富士の山。〈動と静のダイナミックな対比〉。太田記念美術館の主席学芸員、日野原健司さんが編集した『北斎 冨嶽三十六景』では、そう表現されている。描いたのは、葛飾北斎(1760~1849)。激しい波を表現する藍色、通称「ベロ藍」の色彩が印象的である。
〈画工北斎は畸人なり〉
その人生を総括して『葛飾北斎伝』の序文に書くのは浮世絵研究の先駆者、飯島虚心氏だ。
〈年九十にして居を移すこと九十三所。酒を飲まず、煙茶を喫せず。その技大いに売るるも赤貧洗うが如く、殆ど活を為す能はず〉
ちなみに使った画号も、最初に名乗った勝川春朗をはじめ、宗理、戴斗、為一、卍など30種にのぼる。ひどいときは1日に3度引っ越ししたこともあったという。娘・お栄(=葛飾応為)とともに絵を描くことに集中して、家の中は散らかり放題。飯島氏でなくても「畸人」といいたくなる、なかなかの生活ぶりだったようである。

画工・北斎は、若い頃から「売れっ子」だったわけではない。むしろ「晩成型」の絵師であった。「画号をしょっちゅう変える、引っ越しを度々する。そんな私生活と同様に、絵に描く対象、ジャンルも次々に変わっていきました」と日野原さんは解説する。「例えば(喜多川)歌麿は美人画、(歌川)広重は風景画というふうに、多くの絵師には得意分野があるのですが、北斎はいろんなジャンルを『渡り歩いている』。名前も画題も、時によっては画風も変えながら、様々な絵に挑み続けたイメージです」

絵師としての足跡は、大きく分けると4期に分類できるだろう。
まずは「勝川春朗の時期」。貸本屋の手代、彫師の弟子などを経て、数え19歳で北斎は浮世絵師・勝川春章の弟子となった。勝川派といえば、役者絵や美人画で有名な、浮世絵界の王道の一門。そこで役者絵などを描いていたのである。ところが寛政6(1794)年、北斎は勝川派を破門されてしまう。理由は兄弟子との不仲とも、師匠に隠れて狩野派の画法を学んだからだともいうが、はっきりしない。このころすでに、北斎は30歳代の半ばである。
続いてが、「摺物・版本の時期」。勝川派を離脱した北斎だが、その腕前は高く評価されていた。狂歌連の同人誌的な「摺物」の注文が多く入り、まずはその「摺物」や「狂歌絵本」を「主戦場」としていたのである。続いて北斎が名を挙げるのが、「読本挿絵」という小説の挿絵の世界。『椿説弓張月』など、曲亭馬琴とのコンビで発表した作品の数々は、世間の耳目を集めたのだった。さらに文化11(1814)年に初編が発行された『北斎漫画』は、絵を描く人の教則本としての「絵手本」の域を超え、「純粋に絵として面白いイラスト集として評価されました」と日野原さん。幾何学的な線の表現、大胆な構図、読本挿絵を見ていると、後の北斎の代名詞になるような技法が数多く見られる。狩野派や西洋画の技法などに触れた北斎は、徐々に自己の作風を確立していったのである。

そして、その成果がはっきりと現れるのが、天保2(1831)年、70歳を過ぎてからだ。この「錦絵制作の時期」では、「冨嶽三十六景」「諸国瀧廻り」「諸国名橋奇覧」など、世に名高いシリーズを次々に刊行。歌川広重とともに、浮世絵に「風景画」というジャンルを定着させたのである。80歳を過ぎてからが「肉筆画の時期」。虎や龍などを精神性高く描き、ある種神話的な世界を表出される作品が多くなっていく。
「若い頃に評価されなかったのは、『自分で描きたいこと』と『版元などから求められること』に乖離があったからかもしれません。もともと才能はあったのでしょうが、絶え間ない努力を続けたのでしょう。70歳代で新境地を切り開き、80歳代になっても進歩を続けました」と日野原さんはいう。晩年になればなるほど、北斎の筆は「自由」になり、より「奔放」に対象を描き出すようになった。「画狂人」と名乗ったこともある北斎、その身を絵に殉じた生涯だったのである。
(事業局専門委員 田中聡)
江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。