美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第13回「いろはの㋻」――「わびさび」は日本文化の……

六代目中村歌右衛門が亡くなったのは、2001年3月31日だった。
寒の戻り。桜の花が咲き誇る中、日中には雪がちらつく。そして夜には月が煌々と照った。「雪月花の日」だったのである。戦後の歌舞伎界を牽引した希代の名女形は、21世紀最初の年度の最後の日、演劇史に最後の足跡を残してみせた。
冬の雪、秋の月、春の花。四季折々の自然に美を見いだす日本の伝統。特に「秋の月」と「冬の雪」は、「わび」と「さび」という日本独自の美意識に通じるものがある。「静かで閑静な暮らしを楽しむ」という意味がある「わび」と「枯淡の中に奥深い趣」を感じる「さび」。そんな秋や冬の風景は、浮世絵の中にも数多く描かれている。

「もともと浮世絵の風景画は、『名所絵』が発展したもの。その名所がどこかを示すランドマークを分かりやすく描くものでした」と説明するのは、太田記念美術館の主席学芸員、日野原健司さん。「叙情味を持って風景を描くようになったのは、19世紀に入ってからですね」。浮世絵の風景画に新風を吹き込んだのは、葛飾北斎と歌川広重。「年齢差はありますが、同時代に活躍したのこの2人が、それまで浮世絵の世界ではメインストリームではなかった風景画の価値を大きく高めました」と日野原さんは付け加える。「冨嶽三十六景」の北斎、「東海道五拾三次之内」の広重、2人の代表作は、国内だけでなく世界中で親しまれている。幾何学的なフォルムとデフォルメされた事象の造形、大胆な構図の北斎が「理系的」だとすれば、叙情的で「見たままを描く」広重は「文系的」。あくまでも対照的な2人なのである。

しんしんと雪が降り積む中、旅人たちが黙々と歩む。冒頭に挙げた「木曽海道六拾九次之内 大井」は、まさに「寂寥の美」を感じさせる1枚。重く暗い空と真っ白な雪の対比が印象的だ。北斎の「冨嶽三十六景 礫川雪ノ旦」は東京・小石川の茶屋の朝を描いている。前の夜に降った雪。つーんと体に染みる冷たい空気の中、晴れ上がった空の向こうに見える富士。涼感あふれるさわやかな風景。「名所絵」から出発した浮世絵の風景画は、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』のヒットもあり、庶民の「旅への憧れ」を絵にしたものが多かった。〈こざっぱりと整備されて美しい江戸の市街地と郊外の風光が、その住人たちに格別に意識して愛されるようになるには、都市としての成熟が一定の水準に高まるまでの十分な時間が必要であった(中略)その機がようやく熟したのは十九世紀の初頭のことで、幕府がこの地に開かれてから二世紀を経過して以後のことであった〉と小林忠氏は『江戸浮世絵を読む』で書いている。

風景画の発展には、画具の進歩も寄与している。北斎、広重、同時代に活躍したこの2人の絵師が愛用したのが「ベロ藍」という絵の具。「プルシアンブルー」とも呼ばれるこの絵の具はドイツで開発され、18世紀の半ばに日本に輸入された。「夜景を表現するのにもってこいの色合いで、月明かりの下の情景を描くのに多用されるようになりました」と日野原さんは話す。上に挙げた「月に雁」は、その典型的なものだろうか。「広重は、時々刻々と変化する光の様子に敏感でした。『夕暮れと月』のモチーフを多く描いていることでも明らかでしょう。『月二十八景之内』という連作もあるほどです」。日野原さんはいう。
陽が沈み、影がなくなったひととき。わずかな残光で世界が幻想的に見える。「マジックアワー」といわれるそんな時間、空は「ベロ藍」の色彩に包まれる。広重の「雪月花の内 月の夕部」は、そんな情景を描いたものだろうか。柔らかく余韻を残す、少しウェットな詩情。古くから日本人が愛して止まない風景が、そこには広がっているのである。
(事業局専門委員 田中聡)
江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。