美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第12回「いろはの㋾」――をんなもするなり

電気というものがなかった江戸時代、夜は今よりずっと暗かった。その中で煌々とした輝きが絶えなかった吉原は不夜城そのものだっただろう。とはいえ、その輝きは深い夜と表裏一体だった。歌舞伎十八番『助六』のヒロイン、揚巻はこんなふうにいう。
「間夫がなければ女郎は闇」
様々な事情があって苦界に身を沈めた女性たち。一見、華やかな遊郭の暮らしの裏側には、「本当の恋人=間夫」を希求する切ない想いがあった。
上に挙げた「吉原格子先之図」。レンブラントとも比較される、この光と闇の江戸絵画が象徴するのは、遊郭に集う人々、そこに生きる花魁たちの光と闇だろうか。まるで西洋絵画のようにリリカルな、浮世絵には珍しい光と影の対比が印象的である。この肉筆画を残した絵師は葛飾応為という。あの葛飾北斎の三女である。
葛飾北斎、歌川広重、歌川国芳……男性社会に見える浮世絵の世界だが、「実は女性の絵師もいました」と、太田記念美術館の主席学芸員、日野原健司さんはいう。「ただ、北斎とか歌川広重とかと並ぶビッグネームはいなかったですね」。なぜ、ビッグネームがいなかったのか。「絵師を志した女性が少なかった」ことや「若い頃修業をしても結婚して家庭に入る女性が多かった」ことなどが原因にあげられるが、もうひとつ、ちょっとした理由がある。

応為もそうだが、絵を手がける女性には「絵師の娘」が多かったのだ。上に挙げた「武具尽両面合」を描いた歌川芳鳥は歌川国芳の長女。二女の歌川芳女と国芳が「共作」したのが、下の「山海めで度づゑ 親たちにあひたい 十二 讃岐豊島石」だ。河鍋暁斎の娘も暁翠という絵師。「初代歌川豊国の娘も役者絵などを描いていました」と日野原さんはいう。その名は、歌川国花女(くにかめ)。商家に嫁いだ後は、画業に携わることがなかったそうだ。
なぜ、「絵師の娘が多い」ことが「女性画家にビッグネームがいなかった」ことにつながるのか。そこには、浮世絵制作のシステムが関係している。江戸時代の浮世絵師は多作だった。歌川国貞(=三代豊国)は生涯1万点以上の作品を手がけたという。まあ、それは極端な例としても、多作を支えるために、多くの絵師は「工房システム」を採っていた。現代の漫画制作を思い浮かべていただけるだろうか。売れっ子の漫画家には、背景や脇役を描く「アシスタント」がいるでしょう。江戸時代の浮世絵も、同様の制作体制だったのである。
「絵師の娘たち」は、娘だからこそ、工房の一員となって「偉大なる父」のサポートをした。応為は「美人画を描かせたらオレよりも上手い」と北斎に言わせた腕前。晩年の北斎の作品の中には、「応為がかなりの部分を描いたのでは」と思われる作品もあるという。「娘」だからこそ「偉大な父」の影に隠れた部分もあったのではないだろうか。

18世紀のひととき、女性絵師が脚光を浴びたことがあった。肉筆の美人画を多数残している山崎龍女である。大久保純一氏の『浮世絵出版論』によると、この女性は芝神明、つまり増上寺の境内で、公衆の面前で絵を描いていたそうだ。龍女は絵に自分の年齢を入れていたが、最も目立つのは「十四歳」の頃だという。つまり、若い娘が繁華の地で、ライブで絵を描きながら売っていたわけだ。アイドル的な人気者だったのだろうか。下の「美人駒引き図」は14歳の時の作品だ。
稲垣つる女、歌川芳玉、長原梅園……浮世絵の歴史をひもといていけば、そんな女性絵師たちの名前が浮かんでくる。〈男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり〉。紀貫之の『土佐日記』はこんな一文で始まるが、彼女たちはどんな想いで画業に携わったのか。その実態は、今もなお、分からない事が多い。
だからこそ、クリエーターの想像力を刺激するのだろう。女性絵師たちを描く漫画、小説は数多い。応為を描いた杉浦日向子さんの『百日紅』、朝井まかてさんの『眩』、芳鳥、芳女姉妹が登場する河治和香さんの『国芳一門浮世絵草紙』シリーズ……。フィクションの中で、江戸の女性絵師たちは生き生きと活躍し続けている。
(事業局専門委員 田中聡)

江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。