美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第10回「いろはの㋦」――塗ったり振りかけたり押し付けたり

浮世絵の制作は分業制。その工程は「下絵描き」「彫り」「摺り」に分けられる。今回はその「摺り」のお話。
〈浮世絵に高度な多色摺りが導入されるきっかけとなったのは、明和年間(一七六四~七二)のごく初期に江戸の好事家の間で流行した絵画的な略暦、「絵暦」の競作であった〉
『浮世絵の鑑賞基礎知識』の中でこう書くのは、國學院大学の藤澤紫教授である。老中・松平定信による「寛政の改革」(1787~93)よりも前の時代、江戸の文化は武家階級・町人階級が入り混じった「サロン」が牽引していた。教養のある趣味人たちが、自分たちの興味にあかせて、オシャレで品のいい文化を創り出していたのである。「仲間内で交換していた精巧な『絵暦』の技術を商品化したらどうだろう、ということになったんでしょうね」と太田記念美術館主席学芸員の日野原健司さんはいう。商品化された「錦絵」は好評で、以後、「多色摺り」は浮世絵のスタンダードになった。この「絵暦」の制作に深く関わっていたのが、絵師の鈴木春信(1725?~70)。ちなみに後世に大きな影響を与えた春信の家の近くには、あの平賀源内が住んでおり、友人として親しく付き合っていたのだという。絵師と発明家、ふたりがどんなアイデアを語り合っていたのか。想像すると楽しい。

「多色摺り」の浮世絵は、一枚の紙を色ごとに、何回も重ねて摺っていく。「19世紀に入ると、15回から20回、摺るのは普通だったでしょう」と日野原さんはいう。商品として成立するためには、①色が絵柄とずれずに②何枚も同じ色調で、摺ることができなければならない。①が簡明にできるようになったのは、紙を常に一定の位置に置くため、版木の右下と下部の2か所にカギ型の印を付けておく「見当」という工夫が18世紀半ばに生み出されてから。文字通り、「見当を付ける」ことができるようになったのである。ただ、本当に難しいのは、②なのだそうだ。何枚も同じ色合いで美しく摺るには「センスが必要」と浮世絵の技術を現代に伝えるアダチ伝統木版画技術保存財団評議員・学芸員の中山浩子さんは話す。〈摺師は、一枚の馬連を懐中にして飛び出せば、何処へ往っても、食ふに困らないといふ、腕一本の職業である〉と浮世絵研究の古典『錦絵の彫と摺』で石井研堂氏が書くように、職人の世界なのだ。
その「摺り」は、すべてが手作業である。基本は版木に絵の具を「塗って」、水で濡らした紙をそれに押しつけて、「摺って」いくわけだが、「塗る」絵の具にも様々な工夫があり、「摺る」技法にも多くのテクニックがある。有名なのが、「雲母摺」。キラキラ光る雲母や貝殻の破片を絵の具に混ぜて「摺る」。雲母や貝殻を「振りかける」こともある。絵の具を使わず、紙を強く押してその部分を浮きだたせるのが「きめ出し」。下のネコの絵を見ていただこう。顔や体がふっくら立体的になっているのが分かっていただけるだろうか。

朝夕の空など、ひとつの色にグラデーションをつける「ぼかし」の表現、障子の骨などを無色で表す「空摺り」など、一人前の摺師が覚えておかなければいけない技術は数多い。何しろ摺師は、複数の版木を使いながら、「同じ絵」を制作しなければいけないのである。通常、浮世絵は「1ロット=200枚」で作られるのだ。……しかし、何種類もの「版木」をズレなく彫ることができる「彫師」といい、「同じ絵」を作り続ける「摺師」といい、浮世絵に携わる職人たちはどれだけ技術が高かったのだろうか。『錦絵の彫と摺』によれば、摺師の仕事場は整然としていて清潔だったという。〈良工と清潔と整頓とはつき物である〉。現代にも通じそうな一言である。
(事業局専門委員 田中聡)
江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。