<城、その「美しさ」の背景>第32回 篠山城 藤堂高虎流、“ミニマリズム築城”の完成形

家康が大坂を包囲するための城
徳川家康の「どうする」という悩みは、関ヶ原合戦に勝利しても尽きることはなかった。なにを「どうする」のか。もちろん、大坂城の豊臣秀頼を、である。
関ヶ原合戦はいわば豊臣政権内の派閥争いで、家康は豊臣系大名の力を借りて勝利したにすぎなかった。征夷大将軍に任ぜられても、その座を2年で嫡男の秀忠に譲り、将軍職を世襲する意志を世に示しても、豊臣秀吉の遺児、秀頼は健在で、まかり間違えば、西国に配置した豊臣系の有力大名たちが秀頼をかつぎかねない――。家康はそういう疑念をぬぐうことができなった。
では「どうする」か。家康が力を注いだのは、豊臣系大名たちの財力を削ぐことと、大坂城包囲網を築くことだった。その一環として、山陰道がとおり京都への交通の要衝である丹波国(現在の京都府東部、兵庫県中部)の篠山盆地に、資材や人足を諸大名に負担させる天下普請(お手伝い普請)で城を築くことにしたのである。
築城は丹波国より西の15カ国に封じられている20の大名に命じられた。加藤清正、浅野幸長、蜂須賀至鎮、加藤嘉明、福島正則……といった面々で、延べ8万人が動員され、慶長14年(1609)3月に着工。わずか半年で完成している。
5万石をあたえられて入城したのは、家康の実子ともいわれる松平康重だった。ちなみに康重が転封になったのちも、親藩や譜代大名が入封したが、いずれも5万石程度だった。
築城に際し、普請総奉行に任じられたのは池田輝政で、縄張奉行として縄張りを手がけたのは、築城の名手として名高い藤堂高虎だった。家康の信頼が厚かった高虎は、関ヶ原合戦の翌年、家康の命による初の天下普請の城だった膳所城の築城を命ぜられて以来、幕府による天下普請で築かれた城のほとんどで、縄張りを手がけている。
そして、高虎流の築城においてひとつのピークといえるのが、この篠山城であり、幸いなことに、高虎が手がけた城の構えが、いまも非常によく残されているのである。
シンプルながら鉄壁の守り
のちの天下普請の城に応用された高虎流の縄張りの原型は、慶長7年(1602)から築かれた伊予国(愛媛県)の今治城にあった。この連載でもすでに取り上げたが、それは正方形に近い本丸を3重の堀で囲んだ城だった。城壁を複雑に屈曲させるのではなく、シンプルな直線で構成し、代わりに高い石垣と広い堀で防御し、中枢部は石垣上に多門櫓をめぐらせていた。
篠山城も同様に、方形の内郭を内堀が囲み、その周囲をほぼ正方形の外郭が囲む。

外郭の各辺はほぼ直線で、一辺は350メートルほど。低い石垣と、そのうえに築かれた土塁で構成されている。長い直線を、それほど高くない土塁で固めているので、堅牢さに欠けると思うかもしれないが、そんなことはない。土塁上には一定の間隔ごとに屏風折れを加えた土塀が建てられ、その周囲を最大幅が約45メートルと、城の規模を考えると非常に広い外堀がめぐっていた。この外堀は、現在もほぼ残っている。

そして、外堀にもうけられた3カ所の虎口は、それぞれが鉄壁の堅牢さを誇った。
北側の大手門のほか、東門、西門がいずれも枡形を構成していた。城の出入口である虎口を、石垣で枡のように方形に囲ったのが枡形で、そこに2つの門をずらして配置し、敵がまっすぐ進めないようにしたのだ。加えて3つの虎口の前面には、それぞれ馬出がもうけられていた。
馬出とは、虎口の前に堀を隔てて構えられた小さな曲輪のこと。半月型の丸馬出とコの字型の角馬出があり、篠山城のものは角馬出だった。馬出の周囲にも堀がめぐらされ、堀の背面が土橋で虎口につながっていた。馬出があると敵は虎口にまっすぐ攻め込めない。一方、守る側はそこに兵を待機させることができ、虎口を攻める敵を攻撃しやすい。
このように、篠山城の外郭はシンプルでいて、すこぶる堅牢だったのだ。そして、東門前の石垣づくりの馬出、および南門前の低い石垣と土塁で構成された馬出は、完全に近いかたちで残っている。

一方、内堀で囲まれた内郭は、もともと笹山とよばれた小高い丘で、それが高石垣で囲まれた。とりわけ南東隅の天守台には、見事な高石垣が築かれている。ただし、天守は建てられなかった。当初の計画では、本丸(殿守丸)の3つの隅に建てた2重の隅櫓とともに連立天守を構成しようとしたようだ。
また、内郭の石垣上は長屋形式の多門櫓で固められていた。多門櫓は土塀より頑丈で、しかも、屋根があるので天候に関係なく火縄銃を使え、これ以上ない鉄壁の防御設備。このように篠山城の縄張りは、大坂城包囲網の重要な一角として、実戦的にきわめて堅固なものだったのである。

完成されたミニマリズムの城
じつは城の縄張りは、複雑なほうが堅牢だとはかぎらない。見てきたように、篠山城には多角形の曲輪を複雑に配置するとか、城壁を複雑に屈曲させるといった仕掛けはない。輪郭は方形で、直線と直角で構成され、きわめてシンプルである。
しかし、石垣上には多門櫓がめぐり、城壁が低い外郭は堀の幅を十分にとり、虎口は徹底的に守り固めるなど、シンプルであることを少しも弱点にしていない。むしろ、単純明快な空間だからこそ、大兵力を収容して効率的に防御し、攻撃することができた。
こうした藤堂高虎の築城術は、ミニマリズムにもたとえられる。とりわけ篠山城はその完成形であり、構造は合理的かつ効率的で、無駄がない。こうした構造にすると用材の規格化も容易で、短期間で工事を終えるためにも、かぎられた年数で多くの城を築くためにも効率がよかった。

篠山城の縄張りは、平面図で見ると均整がとれていて美しい。それは大坂の存在を懸念する家康の焦りから生まれた美しさだということもできるだろう。また、現状を航空写真で見ても、一部を除いてその美しさが維持されているからうれしい。
ただし、残念ながら建造物は現存していないが、二の丸には平成12年(2000)に復元された大書院が建っている。

慶長14年の築城とほぼ同時に建てられた大書院は、二条城二の丸御殿の遠侍と外観や部屋割りが似ており、二条城を模したといわれている。藩の公式行事などに使われ、明治に廃城になったのちも小学校や公民館に使われながら残っていたが、昭和19年(1944)に焼失してしまった。

それが古写真や古絵図のほか、発掘調査の結果も踏まえ、木造の伝統工法で復元された。京都における将軍の宿所だった二条城二の丸御殿を模したというのは、5万石の大名の城としては破格のこと。徳川家康の強い意向のもとに建てられた城ならではの豪華さだったといえる。
