美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第9回「いろはの㋷」――立派なお顔は役者の誉れ

ネコの社会では、「立派な顔がいのち」だそうである。特に雄ネコにとって、「顔が大きい」ことは「男性ホルモンの分泌が旺盛」なことを意味するそうで、実際に「立派なお顔」の雄ネコはよくモテるし、ボスネコになりやすかったりするようだ。「顔が大きい」ことは、雄ネコの威厳、見た目の良さにとってとても重要なのである。ネコと一緒にするのはいかがなものか、という声もあるかもしれないが、「顔が大きい」=「立派」という感覚は、歌舞伎役者でも同じである。舞台で見栄えがするのに加え、お客さんに表情が伝わりやすい。映像の世界では「小顔」がもてはやされるのだが、舞台俳優はまったく逆。「立派な顔」は「役者の誉れ」なのである。

その歌舞伎は江戸時代、エンターテインメントの中心だった。それは単に「娯楽」というにとどまらない。服部幸雄氏は『江戸の芝居絵を読む』の中でこんなふうに書く。
<近世の庶民たちは非常に信心深かった。彼らにとって、神仏はきわめて身近になり、「まつる」心は楽天的ともいえる明るさを伴うことによって信仰を「遊び」に転換することができた(中略)宗教と娯楽とは、ハレの感覚において一体となり、分かちがたく結び合った(中略)すぐれた役者を鑚仰するのに、彼らは「役者の氏神」「大明神」のように何の抵抗もなく神仏になぞらえる(後略)>のであった。「(代々の市川)團十郎ににらんでもらうと、その年は風邪をひかない」。そんな言い伝えがあるように、役者たちはある意味、ヒトを超えた存在だったのである。
歌舞伎舞台を題材にした芝居絵は、芝居の宣伝ポスターであり、役者のブロマイドであり、流行を生み出すメディアであった。「浮世絵の世界と役者の世界は深く結びついていました。歌川国貞(三代豊国)などは、『歌舞伎の広報担当』といえるのではないかと思うほどです」と太田記念美術館主席学芸員の日野原健司さんは話す。実際、天保の改革で役者絵の刊行が禁じられたのち、歌舞伎人気は低迷しているほど。長い歴史の中で、芝居絵は美人画とともに、「浮世絵の華」といえるものだった。

「忠臣蔵」の回でも書いたが、服部氏によると芝居絵は①劇場内外図②狂言絵③役者絵の3種類がある。中でも③の役者絵こそが本流であり、人気も高かった。役者絵、と言われて頭に浮かぶのは、何といっても写楽の「大首絵」だろう。役者たちの表情をバストアップでリアルに切り取った構図は迫力満点だ。とはいえ、「18世紀前期から中期にかけて隆盛を誇った鳥居派の役者絵は、舞台上のキャラクターの描写を重視し、役者のリアルさはそんなに追及されていませんでした」と日野原さんはいう。女方はあくまでも美しく、立ち役はすっきりとした美男。<実際の役者の容姿に似ているかどうかが大事なのではなく、特定の芝居の特定の役柄にふさわしく描き出すことが、一般の芝居愛好家から強く期待されたのであった>と『江戸浮世絵を読む』の中で小林忠氏は書く。リアルさが重視されるようになったのは明和年間(1764~72)、勝川春章と一筆斎文調が役者似顔絵を描き始めてから。そしてその後、写楽が現れるのである。

庶民の中に深く浸透していた歌舞伎と浮世絵。役者絵で描かれている役者の表情や見得を見て、自分の芝居のヒントにしている役者は、現代でも少なくない。とはいえ、浮世絵師たちは必ずしも舞台を見て役者絵を描いたわけではないようだ。新しい演目、新工夫がある演目は、「中見」といって実際に舞台を見て、開演後に作画をするのだが、型が決まっている作品については、開幕前に従来の知識で描く「見立」という手法が使われたという。まあ、江戸から明治にかけての歌舞伎愛好家には「見巧者」が多かっただろうから、「見立」といってもいい加減なものは描けない。絵師にも相当な芝居の知識は必要だったわけである。現在の歌舞伎座でも、役者の面影を伝える「舞台写真」は高人気のステージグッズ。時代が変わっても、役者にあこがれるファン心理は変わらないのかもしれない。
(事業局専門委員 田中聡)

江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。