<城、その「美しさ」の背景>第31回 小牧山城 信長が築き、家康が大改修した先進の構想

濃尾平野にそびえる標高約86メートルの小牧山。犬山城から眺めても、岐阜城から眺めても、平野の真ん中にそこだけこんもりと盛り上がっているのがよくわかる。

織田信長が清洲からこの小牧山に居城を移したのは、永禄6年(1563)7月のこと。前年2月、三河国(愛知県東部)の徳川家康と清洲同盟を結び、尾張国(愛知県西部)東側の脅威がなくなったため、いよいよ美濃(岐阜県南部)攻めを本格化させるために、美濃方面を一望できる小牧山に城を築いたのだ。

それから4年あまりをへた永禄10年(1567)8月、信長は斎藤龍興の本拠地、稲葉山城を落城させ、念願の美濃平定を成し遂げた。すると、築いてわずか4年の小牧山城を躊躇せず廃城にし、本拠を稲葉山城に移転。井之口とよばれた城下を岐阜と改名した。
信長が築いていた「見せる」ための石垣
4年間しか使わなかったという事実から、小牧山城は近年まで、信長が美濃攻略のため一時的に使用した、簡易的な城にすぎなかったと考えられてきた。ところが発掘調査の結果、そんな評価が180度変わった。

「小牧山山頂から信長が築いたと考えられる石垣が出土した」と報じられたのは、平成16年(2008年)のことだった。城といえば土づくりだった時代に、小牧山城には石垣がもちいられていた――。それだけでもニュースだが、調査が進むにつれ、かなり本格的な石づくりの城だったことが判明したのである。

主郭(本丸)の周囲は、特に西側には以前から巨石が見え隠れしていたが、ここには3段にわたって石垣がめぐらされていた。まだ石垣を高く積み上げる技術がないので、セットバックさせ、犬走とよばれる通路をもうけながら段築されていたが、石垣の背面には、栗石とよばれる小ぶりの裏込め石がしっかり充填されていた。これは排水性を維持するためのもので、かなり本格的な石垣だったのだ。
しかも積まれているのは、長さが2メートル程度、重量が2トン程度はありそうな巨石が多い。小牧山城の山上の主郭(本丸)は、信長の居住空間だったと考えられている。そこに築かれた巨石をもちいた石垣は、訪れる人を畏怖させる目的を兼ねた、「見せる」石垣だった可能性が高い。
ほかの山から運びこまれた巨大な花崗岩

ところで小牧山は岩山なので、石垣も一部は岩盤を組み込んで築かれている。岩の材質はチャート(堆積岩)で、もちろん石垣にも、小牧山から産出されるチャートが多く用いられている。

ところが、主郭に建つ小牧市歴史館(模擬天守)に登る階段の途中に、徳川義親像の台座になっている方形の巨石があり、これはチャートでなくて花崗岩なのだ。しかも、小牧山では花崗岩は採れず、産出するのはいちばん近くても約3キロ離れた岩崎山だという。また、この花崗岩には、石材を割るために直線状に穴をうがった「矢穴」がついている。これはなにを意味するだろうか。
矢穴を開けて石を割る技法が登場するのは、豊臣秀吉の大坂城からで、信長の小牧山城築城はそれより20年早いため、信長時代の痕跡ではない。一方、慶長15年(1610)から諸大名を動員して天下普請で築いた名古屋城の石垣には、矢穴の跡がたくさん見られる。
すなわち、小牧山城に運ばれていた花崗岩を、名古屋城の石垣に使うために運び去ろうとした可能性が高いのである。ということは、この方形の巨石は、矢穴を開けながら切り出さなかったが、持ち去られた花崗岩も多かった、ということになるだろう。
事実、小牧山にいまも残る石垣の石材は大半がチャートだが、一部に花崗岩が混じる。そして、石垣の多くは失われており、名古屋築城に際し、花崗岩だけが選ばれ、運び出されたとすれば辻褄が合う。ということは、信長は最低でも3キロ以上離れた採石場から花崗岩を切り出し、小牧山山頂まで運ばせ、「見せる」石垣にしていたことになる。
その石垣には、山上に登った人を驚かすだけでなく、遠目にも堅牢な石壁を「見せる」ことで、信長の権力を知らしめる目的があったに違いない。
信長の先進的な城を壊して使った家康
小牧山城の「先進性」は、この石垣だけではない。
山麓から中腹まで大手道がおよそ150メートル、まっすぐに伸び、守るべき山頂の主郭に近づくと道はつづら折りになる。のちの安土城とそっくりだ。大手道の幅は、発掘の結果、現在より1.5メートルほど広い5.4メートルだったとわかった。両側には重臣たちの屋敷が並んでいたと考えられるが、直線道路の両側に建つために、重臣たちは屋敷を防御するすべがない。

じつは山麓にも、重臣たちの屋敷地が並ぶのが見つかっている。そのうち南東にある、堀を巡らせた方形の巨大な区画が、信長の山麓居館だったと考えられている。つまり、信長の居住空間は山麓と山頂の双方にもうけられ、それぞれ厳重に防御されているのだ。一方、重臣の屋敷は山麓のものも、主郭側に堀がないので、信長には抵抗できない構造になっている。

清州では重臣たちは、思い思いの場所に独立性の高い屋敷を構えていたと考えられる。このため、主君である信長との関係もある程度、相対的なものだった。しかし、信長はあえて未開であったため土地を自由に使える小牧山に居城を移すことで、家臣の集住を実現し、彼らのうえに絶対的に君臨しようとしたのである。
同様の発想は城下町に建設にも貫かれていた。発掘調査によって、城下には東西に5本、南北に4本の道が走り、それぞれの街路ごとに武家屋敷、鍛冶屋町、紺屋町など、徹底した同職集住がはかられていたことがわかった。しかも、下水設備なども整っていた。
たった4年で破棄してしまうなんてもったいなかった城。それをふたたび利用したのが徳川家康だった。天正12年(1584)、秀吉と戦った小牧・長久手合戦に際し、家康は小牧山に目をつけて本陣を置き、大きな改修をほどこした。
山麓には大規模な土塁と堀を二重に構え、5か所の虎口を整備。曲輪は信長時代のものを使いながら、山腹に横堀をめぐらし、尾根筋に堀切を配すなどした。だが、家康が改変した結果、のちの安土城や秀吉の大坂城にもつながる新時代の城の嚆矢は、その遺構がかなり壊れてしまったのも事実である。