美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第8回「いろはの㋠」――「忠臣蔵」は独参湯

その事件は今から300年以上前に起こった。
時は元禄14年(1701)、春真っ盛りの3月14日。江戸城松の廊下にて、高家・吉良上野介に赤穂藩主・浅野内匠頭が斬りつけたのである。あたかも江戸城では幕府が朝廷の使者を接待していたところ。五代将軍徳川綱吉は激怒し、内匠頭は切腹、浅野家は播州赤穂の領地を没収されたのであった。吉良には何のお咎めもなかった。
なぜ、内匠頭が刃傷に及んだのか。背景に何があったのか。そのあたり、詳しいことは分からない。だが、「けんか両成敗」という言葉がある中で、一方的に断罪された浅野家の家臣たちの間には不満と怒りが充満した。そして元禄15年の12月14日(現在の太陽暦では1703年の1月30日)、赤穂家の旧家臣、つまり赤穂浪士47人が吉良家に討ち入りし、主君の「仇討ち」をしたのである。この「討ち入り」事件は、江戸中の評判となり、浪士たちは英雄扱いされるようになったのだった。

赤穂浪士の討ち入りは、様々な形で舞台化されたが、決定版になったのが1748年に大坂で文楽として初演された『仮名手本忠臣蔵』である。赤穂事件を『太平記』の時代へと置き換えて再構成したこの作品は、上演すれば必ず大当たりしたことから、「芝居の独参湯」とまでいわれるようになった。ちなみに独参湯とは漢方薬の一種で、出血などの窮地の際に「救急的に」用いられる特効薬である。
「それだけ人気があった『忠臣蔵』ですから、もちろん浮世絵の中でも重要なものになっています」。太田記念美術館の主席学芸員、日野原健司さんはいう。「歌川豊国をはじめ、葛飾北斎、歌川広重、歌川国芳ら、そうそうたる面々が題材にしていますからね」。『仮名手本忠臣蔵』を序から十一段目まですべて錦絵にしている絵師も多いのである。

とはいえ、「忠臣蔵」を描いたもののメーンとなるのは、何と言っても「芝居絵」だろう。服部幸雄氏の『江戸の芝居絵を読む』によると、芝居絵は①劇場内外図②狂言絵③役者絵の3つに分けることができる。劇場の雰囲気を描写する①はともかくとしても、②と③の分野では、様々な形で「忠臣蔵」が取りあげられている。「通常は、舞台を描いた③のパターンが多いのですが、『忠臣蔵』では②のパターンも多く見られます。それだけ人気があったと言うことですね」と日野原さん。
『仮名手本忠臣蔵』の「五段目」を題材にした作品を取りあげてみよう。斧定九郎という魅力的な悪役が登場するこの段は、「忠臣蔵」の中でも人気の場面。「『五段目』を描いた浮世絵を集めた展覧会が2010年に平木浮世絵美術館であったほどです」と日野原さんはいう。西洋的な透視図法を使って立体感を出した「浮絵」としてこの場面を描いているのが、北斎と豊国。破れ傘を持って颯爽と登場する定九郎の向こうに弥五郎と出会う勘平が描かれている北斎、定九郎の向こうにイノシシを撃とうとしている勘平がいる豊国、どちらの絵も、「舞台」でなく「物語」を描いたものだが、それぞれにニヤリとさせられる工夫がある。広重の絵は50両を奪った定九郎が金を勘定しているところか。物語の設定と実際の舞台の「ないまぜ」的な絵柄である。

登場人物をネコに見立てた落合芳幾「当世見立忠臣蔵」などの「変化球」も刊行されるなど、江戸期の「忠臣蔵」関連の浮世絵は、とてもバラエティーに富んでいた。明治に入ってもその人気は続いた。月岡芳年は赤穂浪士それぞれの事績を紹介した「誠忠義士銘々画伝」のシリーズを描いているし、依然として芝居絵の題材になることも多かった。「昭和が終わるぐらいまで、『12月といえば忠臣蔵』という風潮がありましたね。『サラリーマン忠臣蔵』なんて映画もあったし、ドリフターズのコントでも、討ち入りの場面が取りあげられていました」と日野原さん。イヌたちを主人公にした『わんわん忠臣蔵』なんて映画もあった。長く庶民に愛された「忠臣蔵」という物語。令和の今、改めて見直しても面白いかもしれない。
(事業局専門委員 田中聡)
江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。