美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第7回「いろはの㋣」――東洲斎写楽、浮世絵の世界で最大のナゾ(?)

東洲斎写楽「市川鰕蔵の竹村定之進」

東洲斎写楽は、ナゾの多い絵師である。

まず、登場の仕方が突然だ。

写楽の名前が世に出たのは、寛政6年(1794)5月。江戸の都座、桐座、河原崎座の3座で上演された歌舞伎狂言に出演している役者の似顔絵が一挙に28図も出版されたのである。バストアップで役者の表情を強調した「大首絵」は、少し前から制作されていたものの、まだメジャーとはいえないスタイル。大判の錦絵は、背景に雲母摺(きらずり)という手法が使われた豪華版だった。それまで1枚の錦絵も手がけていない、まったくの新人のデビューとしては前代未聞、異例の扱いであった。

「前代未聞」で「異例」だったのは、デビューの方法だけではない。描かれた役者たちの姿も、前例から逸脱したものだった。「役者絵というのは、その時上演されている芝居の宣伝を兼ねているものですから、立役であれば『格好良く』、女方であれば『若く、美しく』描くのが普通でした」と太田記念美術館の主席学芸員、日野原健司さんはいう。「ところが、写楽はある種リアルに、役者たちの特徴を描き出したのです」。時に滑稽に、時に醜く見えるほど、写楽は役者の姿を大胆にデフォルメした。

東洲斎写楽「三代目瀬川菊之丞の田邊文蔵の妻おしづ」

さらに言えば、写楽という絵師は、「どこのだれとも分からない」出自不明の人物だった。この時代、役者絵といえば勝川春英や歌川豊国だったが、写楽は勝川派にも歌川派にも属していなかったのだ。「正体不明」の「無名の新人」が「前例のないスタイル」で「大量の作品」を送り出す――写楽の登場を仕掛けたのは、浮世絵版画の版元、江戸の名物男の蔦屋重三郎(通称「蔦重」)。世間が騒然となったのも、むべなるかな、である。

とはいえ、独創的なその作品群は、すぐに受け入れられたわけではない。〈これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止ム〉と江戸時代の浮世絵師たちの履歴を記した『浮世絵類考』には書かれている。自分の容姿の気に入らないところまで強調される画風は、役者たちにも不評だったようだ。評価が高まるのは、ドイツの美術研究家ユリウス・クルトが肖像画家としての写楽を賞賛してから。衝撃的な登場から100年以上後、20世紀に入って以降のことである。

東洲斎写楽「三代目沢村宗十郎の大伴黒主」

写楽の活動は、寛政6年から7年までのわずか10か月。その短い間に140点強の作品を残して、また忽然と姿を消した。「この中でも、写楽の活動は4期に分けられるのですが、トレードマークの『大首絵』を描いているのは最初の1期と3期の一部。それ以外は、全身を描く旧来の役者絵のスタイルになっています」と日野原さんはいう。「傑作と言われている作品が最初の1期に集中しています。途中から『違う人間が描いているのでは』と疑いたくなるほどの差があります」とも付け加える。ここにもひとつ、ナゾがある。

センセーショナルな登場と突然の退場。「正体不明」の写楽の正体をめぐって、明治以降、様々な論議が戦わされた。『浮世絵類考』の増補版には、〈俗称斎藤十郎兵衛、居、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也〉と記されていたのだが、そもそも「斎藤十郎兵衛とは誰なのか」という疑問もあり、その正体について数々の仮説が発表されたのである。葛飾北斎、十返舎一九、司馬江漢……写楽に擬せられた有名人は数多い。中には蔦重自身、という説も出された。とはいえ研究が進んだ現在では、能役者・斎藤十郎兵衛の実在も確認されており、写楽=十郎兵衛説は「定説になった」といってもいいようだ。

なぜ、写楽は匿名だったのか。なぜ、活躍期間が短かったのか。独特の画法はどこから生み出されたのか――。正体が分かっても、相変わらずナゾの多い写楽という存在。200年以上たった今でも、美術ファンの注目を集めている。希代の名プロデューサー・蔦重は、泉下でさぞほくそ笑んでいることだろう。

(事業局専門委員 田中聡)

美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】
江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。