【探訪・徳川家康】第3回 竹千代はトラ年生まれ?それともウサギ年?

徳川家康(1542~1616年)が天下人に登りつめるまでの道のりを、令和の今もたどることができる古戦場や旧跡、史跡などを探訪するシリーズ。3回目は、「どうする家康」の第2話で話題となった徳川家康の生年について、最新の歴史研究を紹介します。

家康の誕生年は、寅年か卯年か

徳川家康(松平竹千代)が岡崎城で産まれたのは、1542年(天文11年)12月26日であるのが定説です。この年と月日は、寅年の寅の日です。


ところが、家康は翌1543年=卯年(ウサギ年)に生まれたとする説が近年、浮上しています。美術展ナビに、桶狭間の戦いを巡る新説を寄稿してもらった名古屋城調査研究センターの原史彦さんが、2021年に刊行された大石学・時代考証学会編『戦国時代劇メディアの見方・つくり方 戦国イメージと時代考証』(勉誠出版)で、「徳川家康イメージの現在」の題で執筆していますので紹介します。

「しかし、誕生した年について家康自身が否定した史料が残っている。家康が慶長八年(一六〇三)、征夷大将軍に任官するにあたり、陰陽道の儀式で神に無病息災・延命長寿を祈禱する天曹地符祭を土御門家に命じて行った際、捧げる願文である都状(徳川記念財団蔵)に「六十一歳」と書かれており、自筆で「家康」と署名していることである。天文一一年誕生が正しければ、この年に家康は数え六二歳である。天に捧げる願文に間違いは書けず、仮に家康自身の意思によって誕生年を天文一一年と詐称していたとしても、さすがに天に嘘をつくことは出来なかったであろう。天には自分の生年を天文一二年と認めているのである。今となっては正確な誕生日は判らないものの、少なくとも家康の生年は、家康自身が認めた天文一二年と考えるのが妥当である。生まれついての帝王であることを強く印象づけるためには、卯年生まれではなく、寅年最後の寅日生まれに置き換える操作が必要だったと思われる。」(250ページから引用)

『戦国時代劇メディアの見方・つくり方』(3520円)

数え年は、誕生日に関係なく、生まれた時が1歳で、1月になると2歳になります。12月26日生まれと、1月1日生まれは、現在の年齢の数え方だとだいたい同じ年齢になりますが、数え年の年齢では常に1歳差があります。3月生まれと4月生まれでは、学年が異なるのに近いかもしれません。

家康の産湯は岡崎か豊田か

松平東照宮(左)と岡崎城

岡崎城内で産まれた家康ですが、そのときに使った産湯について、いずれも愛知県の岡崎市の岡崎城内の井戸で汲んだ説と、豊田市の松平東照宮の井戸水が早馬で運ばれた説とがあり、両市がそれぞれを主張していましたが、家康400年忌の節目の2015年に”和解”しています。その際、豊田市の市長が、松平東照宮で汲んだ水を岡崎城の「東照公産湯の井戸」の取水場へ運んで柄杓で注ぎ、「松平東照宮の水も少しは使われたでしょう」と述べ、両市の和解が宣言されたのです。

豊田市の山中にある松平東照宮のある「松平ごう」は、家康を9代目とする松平氏の発祥の地です。初代の松平親氏ちかうじが旅人として、松平郷を訪れ、地元の土豪に気に入られて婿入りしたことが松平氏の始まりとされています。松平氏はその後、岡崎など平地へ進出し、西三河の有力武士になります。

それから時を経て、松平から徳川に改名した家康の天下が見えた1613年、松平郷の松平尚栄が、210石を与えられて旗本に抜擢されます。ほかの松平一門に比べると非常に遅い“参戦”とみることもできます。江戸時代に城の石垣の修繕には強い規制がかけられたにもかかわらず、松平郷の松平氏は、館(現・松平東照宮)に石垣と水堀の新設を許され、さらに大名の役目である参勤交代まで行うという、特別な格を得ました。

松平郷だけでなく、色々なゆかりの地で、家康の若い頃や家康以前の松平氏のことが、様々な形で伝説化されてきました。こうして脚色された家康観を「松平中心史観」と呼ぶようになったのは昭和50年(山岡荘八の大河小説『徳川家康』は昭和42年に完結)と、わりと最近のことなのです。大河ドラマ「どうする家康」では、近年の歴史研究によって浮かんだ家康のリアルが反映されていくのでしょう。

◇「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」
岡崎城跡(岡崎公園)内に1月21日にオープン。開催期間は来年1月8日まで。大人800円。詳しくはHPへ。
(読売新聞デジタルコンテンツ部 岡本公樹)
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