<城、その「美しさ」の背景>第30回 備中松山城 山上の威容、彩り豊かな天守を愛でる喜び

正面から眺める天守。岩盤上に築かれた低い天守台上に建つ

山城だからこそ残された天守

 

建つのは標高430メートルの山上。江戸時代としては異例の山城であったことが、備中松山城(岡山県高梁市)の天守がいまに残るうえで幸いした。明治6年(1873)に廃城になると、藩主の居所と政庁を兼ねた山麓の御根小屋はさっそく破却されたが、山上の建物は払い下げにはなったものの、撤去するにも費用がかかるので放置されたのである。

 

その経緯については、のちに触れるとして、備中松山城の歴史について簡単に記しておきたい。

背面から眺めた天守。一段高い石垣上に付櫓が建つ

 

最初に城が築かれたのは鎌倉時代にさかのぼり、永禄4年(1561)に毛利元就の支援を受けた三村家親が城主になってから、城域が標高480メートルの臥牛山の、大松山と小松山という2つの峰にわたって広がっていた。一方、城主の居館はそのころから山麓の御根小屋にあったようだ。

 

三村氏が滅んでのち、毛利輝元による改修をへて、関ヶ原合戦後に備中(岡山県西部)が幕府の直轄領になると、徳川家康は旧毛利領のなかでいちばん東に位置する松山城に、西国目付として備中代官を置き、小堀正次、政一親子に城をまかせた。ちなみに小堀政一とは、茶人で造園の名手としても名高い小堀遠州のことだ。

 

小堀父子は荒廃していた山城のうち、小松山に絞って改修を続けた。その後、政一は所替になり、鳥取から池田長幸が、続いて寛永19年(1642)に水野勝隆が入城。2代目の水野勝宗が天和元年(1681)から3年ほどかけて城の大改修に取りかかり、現存する天守や二重櫓はこのときに建てられたようだ。

天守の北側に現存する二重櫓

水野氏の断絶後は、安藤氏、石川氏をへて、板倉氏が8代続いて明治維新を迎えている。

 

さて、天守以下、山上の建物群は、廃城後に前述のとおり放置され、荒れるにまかされて無残な姿をさらすことになった。昭和初期の写真が残っているが、生い茂る木々に囲まれた天守は窓や壁も崩れ落ち、正面から眺めて背面の向こう側が覗けるほどで、いまにも倒壊しそうに見える。

 

実際、そのまま倒壊してしまった建築も少なくなかったが、天守の北側に建つ2重櫓や土塀は昭和4年(1929)、古材を使って修理され、天守も同5年以降、修理が重ねられたうえで、同14年には解体修理が行われ、往時の姿をよみがえらせた。間一髪だったが、そもそも不便な山上になければ、とっくに取り壊されていたに違いない。

本丸南御門に佇む“猫城主”さんじゅーろー

小さくても複雑で凝りに凝った意匠

 

こうして今日まで残された天守は22階で、一見、複雑な姿に見えるが、同じかたちの床面を下から上へ規則的に小さくしながら積み上げる層塔型である。2代目の天守と考えられ、それ以前の天守も、正保年間(164448)に幕府に提出された「正保の城絵図」を見ると、同じく2重だったようだ。

 

広島大学名誉教授の三浦正幸氏は、松山城を修理した小堀遠州の禄高は12000石にすぎず、これでは天守の建造が認められなかったはずなので、天守創建は関ケ原合戦以前の毛利氏の支配下だったはずだ、と主張している。

 

さて、「複雑な姿に見える」と書いたが、どう複雑なのか具体的に指摘していこう。

 

天守には西(左)側面の石垣の下に付属する廊下から入る。元来、この廊下には渡櫓が接続し、天守の玄関だった「八の平櫓」と結ばれていたが、それらは残念ながら、放置された末に倒壊してしまったのだ。それはさておき、屋根がついたこの廊下が西側面の1階と天守台を覆っているため、西側から眺めると3重天守に見える。

西側から眺めると3重天守に見える

一方、東(右)側面には大きな入母屋屋根の付櫓が接続しているため、望楼型と見まがう。また、背面(北側)は天守本体のものよりも高い石垣上に、やはり入母屋屋根の付櫓がつながっている。右側には廊下の屋根もあるので、背面から眺めると、もはや何重の天守なのかわからないほど、屋根と壁の構成が複雑だ。

天守の東側面。入母屋の付櫓が附属し、望楼型に見える

廊下や付櫓を除外しても、非常に凝った意匠が目に入る。天守台の平面は平側(軒に並行する側)が7間、妻側(軒に直角な側)が5間で、狭い妻側を南の正面に向けている。この正面を眺めると、1階には幅2間の巨大な唐破風がつく出窓がある。そこでは角材を縦にならべた縦連子窓が白く塗られ、社寺建築と同様に、梁や紅梁(弓なりに曲がった梁)が、あえて浮き上がるようにしつらえてあって拡張高い。

 

また、2階には左右に縦連子窓があり、それぞれが折れ曲がって側面にまで伸びている。この窓のうえには小屋根までつき、凝りに凝っている。同様の小屋根つき縦連子窓は背面の1階および付櫓も飾っている。

 

さらには2重目の入母屋屋根だけでなく、1階に接続する2つの付櫓の入母屋破風、および西側面の千鳥破風にも鯱が飾られている。2重天守でありながら、5つもの鯱があげられている点にも、小さいからといってバカにするな、というこの天守の矜持が感じられる。

 

よみがえった本丸のなかで天守が映える

 

天守の内部もおもしろい。1階には籠城時に暖をとれるように、長囲炉裏がもうけられている。いかにも山城の設備である。また、背面の1段高い石垣(背面に高い岩盤があるのが原因)のうえに建つ付櫓の内部は「装束の間」とよばれ、籠城時の城主の御座所だったという。

天守1階の長囲炉裏

2階に上がると、背面は舞良戸で仕切られ、内側は一段高い「御社壇」とよばれる祭壇で、宝剣が祀られ、数々の神々が勧請されている。祭壇をもうけるためだったのだろうか、2階の背面には窓がないが、天守の最上階に窓がない側面があるのはめずらしい。

奥に「御社壇」がある天守2階

さて、現存するのは天守と二重櫓のほか、三の平櫓東土塀だが、平成6年(1994)から復元整備が進められ、本丸の正面玄関である本丸南御門と、その両脇の五の平櫓と六の平櫓、東御門、本丸東御門、腕木御門、露地門、それに土塀が、史実にもとづき木造の伝統工法で復元された。

天守と本丸南御門、両側に五の平櫓と六の平櫓
大手門付近の岩盤上に折り重なる石垣

こうして山上の威容がよみがえったなかに、この小さいながらに彩り豊かな天守を眺めると、その美しさが倍加する。山城ならではの折り重なる石垣と相まって、ほかの城の天守を眺めても得られない満足感が、その視覚のなかにも得られる城である。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。