<城、その「美しさ」の背景>第29回 高島城 湖水に浮かんだ優雅な姿を瞼に浮かべ

北東から見た外観復元天守。手前は復興された冠木橋と冠木門

諏訪湖に細長く突き出した「湖上の美城」

中学時代、城郭画家の荻原一青氏が描いた高島城の鳥瞰図を目にして、こんなに美しい城があったのか、と陶然と見入ったのが忘れられない。高島城は「諏訪の浮城」の呼び名のとおり、信濃国(長野県)の諏訪湖畔の微高地に築かれ、湖水を天然の堀にした水城だった。

甲州道中がつらぬき宿場町を兼ねていた城下町と、1本の縄手の道(細長い1本道)だけでつながっているその城は、大手門の先に三の丸、二の丸、本丸の順に曲輪が一直線にならんでいた。こうした連郭式の城が湖水に細長く突き出す光景は、それが絵画であっても少年の目には強烈で、その周囲がすっかり埋め立てられている現状に、怒りを覚えたことも同時に思い出す。

もっとも、湖水が石垣を洗っていた高島城の周囲は、すでに江戸初期には干拓がかなり進んで水田になっており、防御性が損なわれるとともに、浮城としての美観も失われつつあったようだ。

天守台を洗っていた湖水はいまでははるか遠くに

諏訪湖東南湖岸の高島とよばれた微高地に目をつけたのは、築城の名手としても知られた日根野高吉だった。諏訪の地は平安時代から諏訪氏が支配してきたが、天正18年(1590)の小田原征伐後、徳川家康が関東に移封になると、家康に従っていた諏訪頼忠も武蔵国に移動。代わって、豊臣秀吉の家臣だった日根野高吉が諏訪を領有した。

高吉は当該地にあった漁村を移転させ、天正20年(1592)に築城を開始。7年近い歳月を費やして慶長3年(1598)に完成させた。湖上の軟弱な地盤での築城だったこともあって苛烈な工事になり、工事に駆り出された住民が村をあげて逃散したという記録も残っている。

かつての湖上から天守をあおぐ

19世紀スコットランドを代表する詩人、ウォルター・スコットが書いた『湖上の美人』という長編詩があり、作曲家のロッシーニがオペラにもしている。私は『湖上の美人』に触れるたびに高島城を連想し、「湖上の美城だった」という思いにふけるが、それはともかく、湖上に浮かぶ要害のつくりが美しいのは結果論であり、この城は家康に対する備えという役割も負っていた。

古写真でたしかめられる天守の美しい屋根

だが、やっと城が完成して3年、関ヶ原合戦後の配置換えで慶長6年(1601)に、日根野氏は転封となってしまう。代わって諏訪頼水が諏訪に復帰し、以後、明治維新まで10代にわたって諏訪氏が高島藩主を務めた。その間、高島城が大きく改変されることはなかったようだ。

湖に突き出すようにならぶ曲輪をつないでいた道は、いまでもたどることができる。ケヤキ並木が続くかつての縄手の道を経由して大手門跡をすぎると、道はカギの手に左に曲がる。その先、衣之渡曲輪と三の丸を分けていた堀に該当する衣之渡川を渡ると、そこは三の丸跡である。

三の丸川と残る石垣

そのまま進むと、やはり堀の代わりだった中門川(旧三の丸川)を渡る。その橋のたもとには、川沿いに二の丸枡形の石垣が残っている。橋を超えると旧二の丸で、そのまま直進すると本丸の北側の堀に着く。

高島城が城として機能していた当時、本丸までの道はいまたどった経路しかなかった。敵が侵入しても、曲輪を一つひとつ陥落させないかぎり本丸にたどり着けないので、防御力は高かっただろう。ただ、歩いてみればわかるが、いまは二の丸まではすべて市街化されてしまい、かつての浮城の面影はない。

本丸に移築されている旧三の丸御殿裏門

明治6年(1873)に廃城が決まると、城内のすべての建物が取り壊され、残されたのは、天守台をはじめとする本丸の石垣と、本丸の東および北側の堀だけだった。その本丸跡は明治9年(1876)に高島公園となって、今日にいたっている。

ただし幸いなことに、明治初年に取り壊し前の高島城を撮影した写真が、4枚ほど残っている。そのおかげで、本丸の西北角に張り出し、かつては湖水が裾を洗っていた天守台に建っていた天守の姿をたしかめることもできる。

古写真で見ると3重5階の望楼型で、外壁は下見板張り。1階に大きな入母屋屋根がかかり、そのうえに2重の望楼が載る。

2階は大入母屋の屋根裏階なのだろう。妻側(建物の棟に直角な側面)の入母屋破風に窓を、平側(軒に並行する面)には入母屋破風の出窓をもうけ、採光している。そして2重目の屋根上には、切妻破風の出窓がある。この切妻破風の勾配が、1重目の入母屋破風と呼応し、ふたつの伸びやかな稜線が重なるようで美しい。

また、最上重の入母屋屋根は1重目と直交し、このため入母屋破風が、下重の出窓を飾る入母屋破風と重なって、これまた美しいハーモニーを織りなしている。このように、屋根の意匠がじつに凝っているのだ。

残念な点が多い外観復元だが

しかし、仮に破風がなかったとしても、高島城天守の屋根には、御殿建築や数寄屋建築のような優美さがある。それは、木の薄い板を幾重にも重ねた杮葺きだからだろう。

耐火性能が低い杮葺きは、御殿や数寄屋には使われる一方、天守に向かないと考えられてきた。事実、高島城天守は唯一の例外なのだが、あえて杮葺きが採用されたのは、以下の2つの理由からだろう。寒冷地なので瓦が水分を吸った場合、凍結して膨張すると割れたり表面がはがれたりする。また、軟弱地盤なので屋根は軽量にしたい。

ほかに、この天守の外観を際立たせているものに、独特の華頭窓がある。天守北面を写した古写真には、2重目の軒下の左側上部にひとつ、2重目の屋根上にもうけられた切妻破風の出窓にひとつ、確認できる。杮葺きの屋根と相まって高雅な印象を受ける。

この天守は明治8年(1875)に取り壊されたのち、大正時代を皮切りに何度も復興の計画が持ち上がっては消えた末、昭和45年(1970)、古写真および江戸時代の古絵図を参考にして、鉄筋コンクリート造で外観復元された。

北側から見た天守

だが、残念な点も少なくない。景色を眺めやすくするためだと思われるが、切妻破風の出窓にひとつしか開いていなかった華頭窓を3連にし、実際にはなかったバルコニーまでもうけた。また、下見板や軒下の木組みまで、すべてコンクリートで再現しているため、質感が木材とはまったく異なっている。

もちろん杮葺きも再現されず、銅板が葺かれている。このため、建てられてしばらくのあいだは、屋根も外壁もこげ茶色で、まだよかったのだが、いまは屋根が緑青のために緑色になり、壁面は色あせた薄茶色で、少々不気味な感さえある。

切妻破風の下に華頭窓は1つだった。バルコニーもなかった

それでも、浮城だったころの天守の外観が、一定以上再現されているのは間違いない。私はこういうとき、頭のなかで風景にフィルターをかける。そして色彩を補正し、余分な窓やバルコニーを消し、木の質感を思い浮かべる。さらに湖上に浮かぶ姿まで思い描くのは容易ではないが、湖水から浮き出た天守台にそびえる優雅な杮葺きは、たまらなく美しかったに違いない。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。