【探訪・徳川家康】第2回 尾張人質時代 信長の父に囚われた竹千代

徳川家康(1542~1616年)が天下人に登りつめるまでの道のりを、令和の今もたどることができる古戦場や旧跡、史跡などを探訪します。周辺の美術館や博物館なども合わせて紹介していきます。2回目は、前回に続き名古屋で取材。数え年で6歳から8歳まで、竹千代(のちの徳川家康)は尾張の織田家の人質となっていました。

*次回の「どうする家康」あらすじ

竹千代誕生

1542(天文11年)12月26日、徳川家康(竹千代)は、三河(愛知県東部)の有力武士の松平広忠の嫡子として岡崎城で生まれました。この頃、三河は、尾張(愛知県西部)の織田信秀(信長の父)の侵略を受けており、松平広忠は駿河(静岡県)の大名今川義元を後ろ盾になんとか抵抗していました。母親は、三河から尾張(愛知県西部)にかけて勢力を持つ水野忠政の娘「於大おだい」です。広忠は17歳、於大は15歳の若い夫婦でした。
しかし、家康が産まれた翌年、祖父の水野忠政が死亡し、あとを継いだ水野信元は織田家と協力関係を結びました。つまり、松平の敵方になったのです。そのため、松平広忠は於大と離別。幼い竹千代は母親と引き離されました。

1547年(天文16年)、6歳の竹千代は人質として今川家へ送られることになりましたが、途中で織田家に奪われて、尾張で人質となります。竹千代が奪われたのは、なんと広忠の後妻に入っていた真喜姫の父である戸田康光の裏切りでした。ただ、この裏切りは不自然な点が多く、織田家の侵攻に耐えかねた広忠が直接、織田家に人質へ送ったのではという説も近年の研究で浮かんでいます。

尾張人質時代

竹千代は1547年から2年間、尾張で人質生活を送りますが、その間、父の広忠が24歳の若さで亡くなってしまいます。広忠の死後、竹千代は織田家と今川家の人質交換によって、駿府(静岡市)へ送られます。
尾張時代の竹千代がどこに住んでいたのか? まず港町の熱田(名古屋市熱田区)の商家に預けられ、その後、旧名古屋城近くの安養寺(天王坊)に幽閉されたとされています。

現在は南側の海の部分は埋め立てられて「川」になっている

三種の神器草薙の剣をまつる熱田神宮のある熱田台地は、現在は海が埋め立てられていますが、三方を海や河口に囲まれ、水運の盛んな港町でした。信長の父・信秀は、熱田の実権を握る豪商で織田家と関係の深かった加藤図書助ずしょのすけ順盛に竹千代を預けました。
最近まで広大な加藤家の屋敷がありましたが、現在はその一部の「羽城公園」という小さな公園に、解説パネルが立っています。また、加藤家には、幼い竹千代が遊んだ紙製の雛人形も伝わっています。


◇熱田神宮
名古屋市熱田区。織田信長が桶狭間の戦いの直前に立ち寄り、戦勝を祈願したことでも知られる熱田神宮。境内には、奉納された刀などを展示する「草薙館」や「宝物館」がある。

熱田神宮草薙館

(読売新聞デジタルコンテンツ部美術展ナビ編集班 岡本公樹)