美術展ナビ×太田記念美術館コラボ企画【いろはde浮世絵】第6回「いろはの㋬」――弁慶と小町は……

江戸時代の人々、特に庶民は性に関してとても大らかだったようだ。
〈日本人は好色です。それは日本の精神風土が長いこと性に対して積極的かつ開放的であった為です〉と「ポルノ」(『杉浦日向子ベストエッセイ』に収録)で書くのは、江戸風俗研究家でもあった漫画家の杉浦日向子さん。〈江戸っ子の感覚はフランス人に近いのかもしれない〉という“感想”を著書『春画入門』で記しているのは、時代小説家で江戸料理研究家の車浮代さんだ。フランス人といえば艶笑小話が大好きで、男女のラブゲームが大好きな人たち。2006年に不肖私は桂歌丸師匠のパリ公演に同行したのだが、そこで歌丸師匠は「尻餅」、その前に上がった三遊亭茶楽師匠「紙入れ」を口演した。どちらも古典落語の艶笑噺で、「紙入れ」に至っては夫のある女性の浮気、つまり間男の話である。間男はフランス語で「コキュ」。それを扱う笑いは、実はフランス人の大好物。字幕付きの口演だったが、どちらの噺も違和感なく、観客に受け入れられていた。
まあ、「フランス人」のように、江戸の人たちが男女の性愛、ラブゲームに寛容だったのであれば、大衆文化の代表である浮世絵が、数多く性愛を扱っていたのも当然といえるだろう。上の絵、「桜下詠歌の図」は、役者絵で一時代を築いた大物絵師・勝川春章の作品。画面右側にスッキリとした若衆がいるのだが、その姿を一目見ようと若い娘が群がっている。現代で言えば、ジャニーズのアイドルの「追っかけ」のような感じだ。

絹地に着色された肉筆画。「でも、これは春章の絵本『番枕陸之翠(つがいまくらくがのみどり)』の冒頭場面でもあるんですよ」というのは、太田記念美術館の主席学芸員、日野原健司さん。その場面が上の画像。なるほど、ほとんど同じ絵だ。3分冊で刊行されている『番枕陸之翠』は艶本といわれる種類の版本で、実はこの後、延々と男女の営みが描かれている。そういう「男女の営み」を描いた絵を「春画」といい、「笑い絵」とか「ワ印」とか言ったりもするのである。
繰り返しになるが、性愛に大らかだったのが江戸時代である。一応、表向きには春画の制作や販売は禁止されていたのだが、裏では半ば堂々と豪華な作品が作り続けられていた。〈絵師も彫師も摺師も「版元から春画の依頼を受けてこそ一流」とみなされたのです〉と前掲『春画入門』で車さんは書く。「裏の作品」だからこそ、技術の粋を尽くし、価格も高くできた。春画を手がけた大物絵師は春章だけではない。喜多川歌麿も葛飾北斎も、歌川国貞も歌川国芳も、東洲斎写楽以外ほとんどの有名絵師が春画を手がけていた。西洋でも「Shunga」というワードで通じるひとつの大きなジャンルなのである。

その春画は12枚ワンセットで作られることが多かった。「まずは“穏当な”絵から入って、それからハードになっていく構成が多かったようです」と日野原さんは説明する。上に挙げたのは、美人画で有名な鈴木春信の春画シリーズの1枚目。「浮世絵のキスシーンは珍しいですね」と日野原さん。なぜシリーズものが多かったのかというと、浮世絵の前の時代から、「絵巻」や「画帳」で春画的な作品が制作されていた、という歴史が日本の美術界にあったからだ。そういう「枕絵」は大名の「嫁入り道具」でもあり、深窓のお嬢様の「性教育」の道具でもあったようだ。春画ほど過激ではないが、ちょっと色っぽい女性の姿を描いているのが「あぶな絵」。鈴木春信の下の絵が、その典型だろうか。「江戸の人たちは着物の裾からチラリと見える白い足に色気を感じていたようですね」と日野原さんはいう。

馬鹿夫婦 春画を真似て手をくじき
川柳でこんなふうに笑われているように、「西洋的なタブー意識がなく、あっけらかんとしていた」(日野原さん)江戸の性。
弁慶と小町は馬鹿だなぁかかぁ
言い寄ってくる数々の男性になびくことのなかった小野小町、生涯一度しか女性と交わることのなかった武蔵坊弁慶。こんな「いいコト」をなんでやらなかったんだろうなあ。川柳が描き出す江戸の性愛は、あくまでも明るく健康的。浮世絵もまた然り、なのである。
(事業局専門委員 田中聡)
江戸時代、日本を代表するポップカルチャーだった浮世絵。マネやゴッホなど西洋の画家たちにも影響を与え、今や世界に誇る日本文化のひとつ、とまで言われている。そんな浮世絵の「いろは」をいろは47文字に併せて学んでいくのが、この連載。浮世絵を専門に収集・研究・展示している太田記念美術館(東京・原宿)と美術展ナビのコラボレーション企画だ。