<城、その「美しさ」の背景>第28回 岡崎城 家康が考え抜いたか、その厳重な防御

復興天守を遠望する

30年にわたる徳川氏の三河支配の拠点

 

いうまでもなく、天文11年(15421226日に徳川家康が生まれた城である。ただ、これもよく知られている話だが、家康は岡崎城で育ってはいない。

家康の産湯を取水したと伝わる井戸が城内に

天文4年(1534)に祖父の松平清康が家臣に殺されてから、松平家は厳しい状況に置かれ、駿河国(静岡県東部)駿府の今川義元に頼るほかなくなった。だから、家康の父の広忠は、妻の於大の実家である水野氏が今川氏を離れて織田信秀のもとに走ると、今川氏に遠慮して於大と離縁までした。このため、家康(幼名は竹千代)はわずか数え3歳にして、生母と生き別れになったのだ。

 

続いて、竹千代が今川家の人質になったこともよく知られている。最近の研究では、広忠は天文16年(1547)、織田信長の父の信秀に降伏して竹千代を差し出し、のちに今川義元が生け捕りにした織田方の将との人質交換で駿府に送られたことがわかっている。

 

そんな家康が生地の岡崎城に戻ることができたのは、永禄3年(1560519日、桶狭間合戦で織田信長が今川義元を斃したからだった。義元の命で桶狭間より西の大高城にいた家康(当時の名は松平元康)は、義元の討ち死にを確認すると、織田勢が来襲する前に急いで立ち退き、今川勢が退却するのを待って岡崎城に入城。人質交換の際に一時的に戻って以来、10年半ぶりのことだった。

 

菅生川と矢作川の合流地点の、いま岡崎城がある龍頭山とよばれる半島状の河岸段丘にはじめて城を築いたのは、祖父の清康だとされる。そして家康は帰城後、元亀元年(1570)に浜松に移るまで10年間、岡崎城を拠点にした。さらに嫡子の信康が城主だった期間、および城代を置いていた期間を加えれば、天正18年(1590)に家康が関東に移るまで30年にわたって、岡崎城は徳川氏の三河支配の拠点であり続けた。

本丸北側の清海堀

しかし、この城がそのころ、具体的にどんな姿であったかは、わかっていない。とはいえ、清康が築いた当時から、現在の本丸の位置が城の中心だったと考えられている。また、本丸の北側に二重に配されている清海堀とよばれる空堀に、家康がいたころ、また、徳川氏の拠点であったころの岡崎城の姿を思い浮かべるヒントがある。

 

家康時代の姿をとどめる清海堀

 

本丸北側の、江戸時代に御殿が建っていた二の丸から本丸までの道のりは、直線距離にすればわずかなのに、何度も屈曲して非常に複雑に、つまり、きわめて厳重に構築されている。なにしろ、二の丸と本丸のあいだに置かれた持仏堂曲輪と狭い帯曲輪(通路)が、二重の馬出になっている。馬出とは虎口(出入口)を守るために、その外側に置かれた小さな曲輪のことである。

 

そして、二の丸から太鼓門を通って持仏堂曲輪に入ると、大きく反転して帯曲輪に進まざるを得ず、その間、侵入した敵は本丸側から絶えず横矢をかけられてしまう。

 

家康が居城にしていたころはもちろん、徳川の拠点だったころの岡崎城は、一部に石垣が築かれていた可能性はあるにせよ、基本的には土塁と空堀がめぐらされた土の城だったと考えられている。現在の清海堀は、とくに本丸の対岸に石垣が築かれているが、これは近世の改修によるものと思われる。堀の幅なども拡大されている可能性はある。

清海堀を渡り天守につながる廊下橋跡。かつては木橋だった

しかし、曲線的な空堀は中世城郭に特有のもので、厳重な二重馬出をふくめ、家康時代の名残りをとどめていると思われる。家康が城の防御を厳重にするために「どうする」か考え抜いた結果が、反映されている可能性は高い。

 

また、清海堀は打ち捨てられた中世城郭の空堀ではなく、明治維新まで存続した近世城郭に継承された中世の名残りであるところに価値がある。江戸時代を通して洗練され、古式の堀に磨かれた美しさが宿ったともいえるだろう。

 

一方、岡崎城に本格的に石垣が導入されたのは、家康の関東移封後に入城した豊臣系大名の田中吉政の時代だった。石材には近郊で産出する花崗岩がもちいられ、いま残っている石垣で、確実に吉政時代にさかのぼると確認できるのは天守台である。

廊下橋の先、天守台石垣には「見せる」ための鏡石が

天守台の石垣は、分類としては野面積みだが、築石には自然石を割った割石が、多少の加工をほどこして積まれるなど、打込みハギに近づいている。ただし、隅角部はまだ、直方体の築石を長辺と短辺を交互に積み上げる算木積みにはなっていない。

 

吉政はその天守台上に、実際に天守を建てたと考えられるが、おそらく慶長年間(15961615)になんらかの理由で失われてしまった。関ヶ原合戦後、岡崎が徳川の支配下に戻ると、譜代大名の本多康重が入城。跡を継いだ子の康紀が元和3年(1617)、天守を再建している。

 

3つの時代が視覚的に重なり合う

 

その際、正面を1間ほど南側にせり出させた以外は、基本的に吉政時代の石垣を使ったと考えられる。その天守は明治6年(1873)から同7年にかけて取り壊されるまで残っていて、何種類かの古写真が残っている。それによると、33階地下1階の望楼型で、外壁は下見板張り。正面右に2重の井戸櫓、左にやはり2重の付櫓を付属する複合式だった。

天守正面。本丸には神社が建つため天守を眺めにくい

1重目に大きな入母屋屋根がかかり、妻側(建物の棟に対して直角な三角形の側面)を南側の正面に向ける。しかし、(棟に並行した)平側にも、妻側の入母屋破風と変わらないほどの大きな千鳥破風がつき、強いアクセントになっている。

 

また、望楼型にしては逓減率が低く、最上階が5間半×4間と、安土城や豊臣大坂城の3間四方よりもかなり大きい。しかし、その最上階は、廻縁がなく窓も小さい。ただし、最上重の屋根には軒唐破風がつき、小ぶりながらアクセントには事欠かなかった。

清海堀の向こうに天守を仰ぐ

いま天守台のうえには、古写真を頼りに昭和34年(1959)に鉄筋コンクリート造で建てられた天守が建っている。観光を優先して、最上階にもともとなかった廻縁がつけられているなど、残念な面が少なからずあるが、いま述べた破風の構成などは再現されているため、江戸時代とかけ離れた姿ではない。

 

家康時代の名残りを留める清海堀。その向こうには、豊臣秀吉の治世に、家康を関東に封じ込める目的もあった田中吉政時代の天守台。そのうえには、ふたたび徳川の支配下で譜代大名が建てた天守。もっとも、天守は外観が大雑把に復元されたというシロモノではあるけれど、こうして3つの時代が視覚的に重なり合うところに、岡崎城のおもしろさがある。

なぜか二の丸に建つ大手門

ちなみに、旧二の丸に平成5年(1993)に建てられた「大手門」は、元来の位置からかなり離れており、平成22年(2010)に再建された東隅櫓は、江戸時代の工法で建てられたが、図面が残っていなかったため、同時代に建てられた別の城の櫓が参考にされた。

再建された東隅櫓

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。