<城、その「美しさ」の背景>第27回 浜松城 命からがら逃げ帰った家康を迎えた本拠 その後の数奇な縁

天守門から復興天守を眺める

徳川家康が武田信玄に備えて築いた城

 

武田信玄が率いる推定25000の軍が、すでに徳川家康が平定していた遠江国(静岡県西部)に侵攻したのは、元亀3年(1572)の秋だった。二俣城を2カ月の籠城戦ののちに陥落させると、1222日、天竜川を渡って家康の本拠、浜松城に迫ってきた。家康の軍勢は織田信長から送られた3000の援軍を加えても、せいぜい8000程度だったようだ。

 

籠城戦を覚悟した家康だったが、信玄は浜松城を素どおりし、三方ヶ原台地を進んで西に向かった。二俣城を落とすのに2カ月も要した信玄は、浜松城に時間をかけてはいられなかった。そこで、家康をおびき出す作戦に転じたのだろう。

 

素通りしてくれてラッキー、とはいかない。それでは信玄と信長の直接対決が早まって、家康はあとで信長から叱責されるだろう。それに、敵を見すごすような大将は家臣に見かぎられてかねない。おそらく「どうする」かおおいに迷った末、家康はおびき出しに乗って出陣したのだが、徳川軍は総崩れ。家康自身、命からがら浜松城に逃げ帰っている。

 

家康の人生最大の危機だったとされる三方ヶ原合戦。その舞台となった浜松城に家康が本拠地を移したのは、元亀元年(1570)のことだった。

 

同盟相手の信長は、本拠地を動かさない戦国大名が多いなか、清州、小牧山、岐阜と、次の標的が生じるごとに居城を移動させた。家康もそれにならったと思われる。東方の駿河国(静岡県東部)をねらうために永禄十三年(1570)、三河国(愛知県東部)の岡崎城を長男の信康に譲り、浜松城に移っていた。

 

ただ、最初はいまの浜松城より東北の小高い丘上にある、今川氏の支配時代に築かれた引間城に入った。しかし、引間城も取り込みながら城域を拡大し、三方ヶ原台地の東南端の、現在、復興天守が建っているあたりに、あらたに城の中心を築いた。そして、地名も信長が齋藤氏時代の「井の口」を「岐阜」へと改名したように、「引間」を「浜松」とあらためたのである。

小高い丘に築かれた引間城の跡

ちなみに、引間城の跡地は江戸時代も「古城」として城内に残され、明治に東照宮が勧請されたため、いまも小高い丘として面影をとどめている。

 

家康を牽制するために石垣の城に

 

家康は天正14年(1586)に駿河国の駿府城に移るまで、15年以上にわたって浜松城を居城にし、天正6年(1578)からはかなり大規模な普請を行った様子が『家忠日記』に記されている。

 

現在、復興天守が建つ天守曲輪や本丸は、石垣が複雑に折れ曲がり、平面はいびつな多角形だが、これは自然の丘陵のかたちが反映されたものだと思われる。家康時代の浜松城について具体的な記録は残っていないが、おそらく、天守曲輪や本丸を中心とした城の中枢部の構成は、家康時代の姿をかなりとどめているのではないだろうか。

 

ただし、家康時代は土塁と空堀による土の城だったと考えられ、発掘調査でもそれが裏づけられている。一定量の石垣が積まれていた可能性は否定できないが、現在、見ることができる石垣は基本的に、天正18年(1590)に家康が関東に移封になってのち、豊臣系の大名の堀尾吉晴が築いたものと想定されている。

本丸より一段高い復興天守を眺める

 

最高所に天守曲輪があり、その東側に10メートルほど下がって本丸が、さらに東側に34メートル下がって二の丸がある。旧城域はかなり市街化されてしまっているが、天守曲輪周辺には、野面積みの荒々しい石垣がよく残っている。

二の丸から天守曲輪(天守門と復興天守)を望む

この時代は豊臣系の大名のもと、累々たる石垣に囲まれ、瓦葺の建物が建ちならぶ城が次々と築かれた。浜松城の石垣も、それらの城の石垣とよく似ている。とくに浜松城など家康の旧領内の城には、江戸の家康を牽制するねらいもあった。つまり、家康にとってみれば、武田信玄に備えるためにも堅固に築いた城が、自分への備えになってしまったわけで、さすがの家康も、どうするもこうするもなかったことだろう。

 

もっとも、江戸時代も要所は豊臣時代にかたちづくられた原型をとどめ、京都と江戸のあいだの要所を守る城として、譜代大名が代々居城にした。いわば、力強くなって家康のもとに帰ってきたのである。

 

荒々しいようで考えられた石積み

 

さて、昭和33年(1958)に建てられた復興天守は、当時の予算の関係で、天守台の東側のおよそ3分の2だけを使ってこじんまり建てられている。この天守は、歴史的事実とは無関係なのだが、元来、どんな天守が建っていたのだろうか。

大きな天守台の東側に寄せてこじんまり建てられた復興天守

当時の石垣築城技術が未熟だったため、平面が不等辺四角形の天守台は、一辺がほぼ18メートルとかなり大きい。そして正面には付櫓台が突出し、天守台には穴倉があって、そこには井戸がある。こうした特徴が共通する天守は、国宝に指定されている松江城のみで、しかも松江城は浜松から移った堀尾吉晴が築いたものなのだ。

復興天守の地下に保存されている穴倉の井戸

松江城天守は正面に付櫓があって天守の入り口となり、1重目と2重目が同じ大きさで、2重目に大きな入母屋屋根がかかり、そのうえに望楼部分が載っている。天守台の規模を考えると、松江城を少し小さくしたような44階か34階くらいの望楼型天守が建っていた、と考える専門家が多い。

 

ただし、17世紀半ばに幕府に提出された「正保の城絵図」には天守が描かれていない。それ以前に、なんらかの理由で失われたのだろう。

 

かたや、天守曲輪の入り口に構えていた櫓門である天守門は、幕末まで残っていたが、明治6年(1873)に解体された。この天守門は発掘調査の結果や江戸時代の絵図などをもとに、平成26年(2014)に木造で復元された。

野面積みの荒々しい石垣と天守門

天守台も、天守門も、その石垣は浜名湖北岸の山々で切り出され、浜名湖や佐鳴湖の水系を通って運ばれた珪岩が積まれている。一見したところ、自然石を加工せずに積んだ野面積みのなかでも、とりわけ荒々しく感じられるが、じつはよく考えて積まれている。自然石といっても、石材の大きさをある程度そろえて一段ごとに横にならべるように積み(布積みとよばれる)、横目地をとおしている。

横目地がそろった天守曲輪の櫓台

一方、天守門の石垣や、天守の入り口だったと思われる付櫓台には、鏡石とよばれる巨石をアイストップとして配置している。登城する人を威圧し、城主の権勢を知らしめるねらいがあったと考えられる。それも元来は、家康への抑止力を兼ねていたことを思うとおもしろい。

鏡石が配置された天守門
天守付き櫓台の鏡石

復興天守は最近、大河ドラマ『どうする家康』に合わせて化粧直しを終えている。だが、あえてその姿は忘れて、巨石とともに訪れる人を圧倒したであろう、松江城によく似た豊臣時代の天守を想像してみてはどうだろうか。また、不整形な石垣上にうまくバランスさせて建てられた天守門を見て、江戸時代の浜松城の姿を思い浮かべるのもいい。

浜松から移った堀尾吉晴が築いた松江城。浜松城もこれに似た天守閣が築かれていたのかもしれない。

そうして眺めると、無造作に見える石積みが、じつはこの城の美の大本であることに気づくだろう。荒々しさに支えられた美もあるのである。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。