【探訪・徳川家康】第1回 桶狭間の戦い 信長と敵だった青年武将「松平元康」

徳川家康(1542~1616年)が天下人に登りつめるまでの道のりを、令和の今もたどることができる古戦場や旧跡、史跡などを探訪します。周辺の美術館や博物館なども合わせて紹介していきます。1回目は、12月に桶狭間古戦場とその周辺を家康目線で取材しました。

今川方の先鋒として

1560年(永禄3年)5月、織田信長のその後の命運を決める桶狭間の戦いが尾張国(愛知県)で行われました。信長が今川義元を討ち取ったこの戦いには、今川方の武将として若き徳川家康(松平元康)も参陣していました。
桶狭間の戦いは、以前は今川義元が上洛(京都へのぼること)を信長に阻まれたとされていましたが、近年の歴史研究では、尾張(愛知県西部)の信長と、三河(愛知県東部)を支配した義元との”国境線”を巡る戦いとみられています。

国史跡の大高城跡(名古屋市)

このとき、今川方は尾張東側の鳴海城と大高城(いずれも名古屋市)にまで侵出しており、信長はこの2城を奪還しようと攻勢を強めていました。義元はこれに対して2城を確保するために、自ら兵を率いて、尾張国までやってきました。
家康は、今川方の先鋒として、2城のうちの南側の大高城の救援に向かいます。

国史跡に指定されている丸根砦跡
丸根砦から見る大高城の丘陵

そして、家康は、大高城を攻めるために信長が築いた丸根砦を落とすと、大高城に入り、兵糧などの補給に成功します。あとは後ろからくる義元の本隊を待つばかりでしたが、義元は手前の桶狭間で、信長の攻撃を受けて戦死してしまいました。
家康側の桶狭間の戦いについて記録した『三河物語』では、家康の親戚でもある織田方の水野氏から「義元討ち死に」の連絡が届いたものの、家康は偽情報ではないかとを怪しみ、なかなか大高城を出なかったとの逸話があります。大高城と桶狭間は徒歩でも行ける距離ですが、間には丘が連なっており、大高城から戦況を見通することは難しい地形です。
家康が桶狭間周辺を退却したときには織田軍はすでに引き上げており、退却への決断までに時間がかかったことが、結果的に、安全に三河の岡崎へと退くことにつながったようです。

◇桶狭間古戦場
桶狭間の戦いが行われた場所の比定地については、名古屋市緑区と愛知県豊明市の2か所あり、自治体が分かれていますが、それぞれ隣接しています。
名古屋市緑区には桶狭間古戦場公園があります。周辺には池が多く、義元の戦死した地名が湿地帯を意味する「田楽狭間」とされていることと地理的な条件が合っているとされています。

織田信長と今川義元の銅象が立つ桶狭間古戦場公園(名古屋市)

一方、豊明市の桶狭間古戦場伝説地は東海道(国道1号線)に沿ったところにあり、江戸時代から桶狭間古戦場として知られ、伝説地として国史跡に指定されています。

桶狭間古戦場伝説地には江戸時代の石碑などが立つ(豊明市)


◇徳川美術館
名古屋市東区徳川町。家康の私物を含む御三家の尾張徳川家に伝来した宝物を継承する美術館。2023年は年間を通じて、常設展(名品コレクション展示室)で家康ゆかりの品を特集展示するほか、夏には家康の特別展も開催予定。
徳川美術館

(読売新聞デジタルコンテンツ部 岡本公樹)