<城、その「美しさ」の背景>第26回「五稜郭」 時代の過渡期に生まれた“和洋折衷”の儚さ 香原斗志

五稜郭タワーから見下ろした稜堡

フランス軍艦の情報をもとした「西洋式築城」

日本の城としてはきわめて異質なかたちである。上空から見ると星形をしている五稜郭は、一般に「西洋式の築城」として紹介される。しかし、それは「最先端」とイコールではなかった。

五稜郭の築造がはじまったのは安政4年(1857)7月のことだった。同元年(1854)3月に締結された日米和親条約の結果、箱館の開港が決まると、幕府はそれに先立って周辺を統治する箱館奉行を設置。目付や外国奉行、勘定奉行などの要職を歴任した、開明的で優秀な人物を充て、同3年からは3人体制にした。

奉行らは海岸を防備するために、数カ所に台場(砲台)を築く必要性を訴え出た。それと同時に、外国の艦船の標的になりやすい箱館山麓の高台にあった奉行所の建物も、港から3キロほど離れていて艦砲射撃が届きにくく、亀田川の水を生活用水に使える亀田柳野の原野に移転することを提案した。

ただし、たんに移転させるという話ではなかった。奉行所の四方は土塁で囲みたい、という希望だった。では、どんな土塁で囲むのか。それを考案し、設計したのが、奉行所内にもうけられた箱館諸術調所の教授役に任命されていた伊予国(愛媛県)大洲藩士出身の武田斐三郎だった。

武田は箱館に入港していたフランス軍艦コンスタンティーン号の副艦長から、パリ郊外にある土塁で囲まれた砲台に関する書類を見せられた。武田はそこから大砲や西洋式土塁の絵図面などを写しとり、それをもとに沿岸の台場と、奉行所を囲む星形の土塁を設計したのである。

こうして工事がはじまり、星形の土塁の周囲に水堀がめぐらされ、その内側に役所や役宅が建てられていった。ほぼ完成したのは元治元年(1864)4月で、箱館奉行所はようやく、この土塁のなかに移転することができた。

ちなみに、「五稜郭」とは要塞の形状を表した俗称で、正式な名称は「亀田御役所土塁」だった。

木造で復元された箱館奉行所

五稜郭の星型の形状は、上空から確認するのがいちばんよく、幸い、五稜郭タワーから見下ろすことができる。

すると、城郭から5つの稜堡が突き出しているのがよくわかる。星形の外周は約1.4キロメートルで、堀の幅は30メートルほどだ。稜堡は死角をつくらないためのもので、隣の稜堡や、そのあいだの窪んだ部分まで広く見とおせる。俯瞰するとそのことがよくわかる。

地上から見た稜堡

そしてタワーの真下には、城郭本体から離れた半月堡が見える。これは稜堡の出入口を援護射撃するための施設で、当初は5カ所に設置される計画だったが、予算不足のため正面出入口にしかもうけられなかった。

正面入口にだけ設けられた半月堡

タワーを下って半月堡に足を踏み入れると、特徴のある石垣が目に入る。箱館山から切り出した石を加工し、いわゆる切込ハギですき間なく積まれた石垣は、最上段から2段目がせり出している。これは「刎ね出し」といって、敵の侵入を防ぐための工夫だ。

刎ね出しがある半月堡の石垣

先ほどから五稜郭を「土塁」と呼んでいて、事実、土塁が主要な施設だが、このように出入口や堀の水際には石垣が築かれている。冬の箱館は寒い。水分をふくんだ土塁は凍結して崩落するので、石垣の支えが必要だった――。そんな事情もあった。

手前に低塁、奥に主土塁

また、3カ所ある出入口の正面には、外から城郭内部が見えないようにし、至近距離から射撃されるのを防ぐための「見隠塁」がもうけられ、その正面と側面には石垣が積まれている。

左の石垣が入口をふさぐ見隠塁

さて、見隠塁の向こう側、すなわち内郭に入ると、ほぼ中央には現在、箱館奉行所の庁舎が建っている。五稜郭内の建物は、ほとんどが明治4年(1871)に解体されてしまい、庁舎も例外ではなかったが、平成22年(2010)、庁舎全体の3分の1に相当する約1000平方メートルにわたって復元された。

復元された箱館奉行所
箱館奉行所の内部

幸いなことに古写真や古図面、文献資料が残っており、昭和60年(1985)からの発掘調査の成果も活かして、使用する木材から、屋根瓦の赤みがかった微妙な色合いにいたるまで、できるかぎりオリジナルに忠実に復元したという。入母屋屋根の中央に載る、時を知らせる太鼓が置かれていた太鼓櫓が印象的だ。

実戦では役立たなかったハイブリッドの要塞

こうした稜堡型の要塞は15世紀末、日本の室町時代にイタリア半島で誕生した。それまで西洋の要塞は、高層の塔が建ちならぶあいだを高い城壁で結んだものが一般的だった。ところが、鉄砲や大砲が普及すると、とりわけ大砲による攻撃で城壁が破壊され、敵に突破口を簡単につくられてしまうことになった。

しかし、城壁が低ければ、砲撃されたときの衝撃が緩和されるうえに、守る際も低い位置から低弾道射撃ができ、敵への命中率が高まる。加えて、死角を減らして有効に射撃できれば鬼に金棒だということで、稜堡という形式が生み出されたのだ。

ただし、西洋でこうした要塞が盛んに築かれたのは15~16世紀で、17世紀にかけては、都市全体を囲む稜堡式要塞も登場するなど規模が拡大したが、大砲の射程距離や破壊力が増すにつれ、こうした要塞自体が時代遅れになっていった。

フランスやオランダは18世紀末から19世紀にかけても、このような要塞をアジア圏の植民地政策にかかわる地域に構築している。彼らから見た「後進地域」は旧式の要塞でこと足りる、と判断したのだろうか。

一方、五稜郭は武田斐三郎という日本人が設計し、すべて日本人の手で築いたという点が特異ではある。形態こそ西洋由来の星形だが、土塁の構築から石積み、建築まで、すべて日本の在来の工法がもちいられた、まさにハイブリッドの城で、そこに独特の味わいが生じているのもたしかである。

しかし、実戦では役立たなかった。榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が立てこもった五稜郭は、海岸から3キロ離れていたにもかかわらず、新政府軍の軍艦「甲鉄」に搭載された射程5キロのアームストロング砲で正確に狙われ、とりわけ奉行所の屋根にそびえる太鼓櫓が標的になり、命中されている。

明治2年(1869)5月17日、榎本らが降伏して戊辰戦争は終結した。二百数十年の鎖国を経験していた日本人にとっては、なにが最新でなにが旧式なのか、判断するのが困難だっただろう。五稜郭が美しいとすれば、それは西洋の各地に残る稜堡式要塞と同様の機能美ではなく、日本の開国期に咲いたあだ花としての美しさだろう。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。