<城、その「美しさ」の背景>第25回「原城」 “永遠”を求めて戦った人々と運命を共に 香原斗志

本丸の崩された石垣

キリシタン大名の手になる総石垣の近世城郭

寛永14年(1637)から15年にかけて起きた日本史上最大の一揆、島原の乱で、一揆勢が立てこもった城として、その名がよく知られている原城。平成30年(2018)7月に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として、ユネスコの世界文化遺産に登録され、訪れる人も増えている。

島原の乱が発生した時点では打ち捨てられた古城だった、というイメージを抱く人もいると思うが、実際には、城としての機能はかなり維持されていたことがわかっている。

肥前国(佐賀県と長崎県、ここでは長崎県)の島原半島一帯は、長く有馬氏が治めていた。その本城は、原城の北方3キロほどの丘陵上にあった日野江城で、その支城として明応5年(1496)、海岸に突き出した標高31メートルの丘上に原城は築かれた。周囲4キロほどで、東側のほぼ三方を有明海に、西側と北側は低湿地に囲まれた、天然の要害だった。

当初は土塁と空堀で構成され、自然の地形を活かしたいくつかの曲輪が並立する中世的な土の城だった。しかし、慶長3年から9年(1598~1604)にかけて、キリシタン大名として知られる有馬晴信が大きく改修した。こうして本丸は、織豊時代の築城系列に連なる石積みによる総石垣づくりで、瓦葺の櫓や門が建ちならぶ、初期の近世城郭の姿が整った。

しかし、命脈が尽きるのは早かった。まず、慶長17年(1612)に晴信が失脚し、斬首されてしまう。徳川家康の養女を正室に迎えていた嫡男の直純は、父の所領を引き継ぐことを許されたものの、慶長19年に日向国(宮崎県)の延岡に転封になる。

その後、島原半島は一時、天領になるが、元和2年(1616)に松倉重政が入封すると、2年後にはあらたに島原城の築城を開始。すでに一国一城令が出されており、重政は島原城を本拠としたため、日野江城と原城は廃城になった。

巨大な本丸大手門と三重櫓の壮観

長く埋もれていた原城だったが、平成4年(1992)から毎年重ねられてきた発掘調査を経て、枡形の虎口や櫓台など、その姿がかなり明らかにされている。

それによると本丸の虎口(出入口)は3カ所で、まず北側には、幅が約9メートルの虎口が東に向いて開かれていた。出土した8つの礎石や大量の瓦、石垣の形状から、瓦葺の巨大な櫓門が建っていたと考えられる。水路や階段も出土している。この門が本丸大手門に相当し、たとえば2階建てであるなど、海上から遠望されることも想定した豪華な外観だった可能性も指摘されている。

本丸大手門跡
本丸大手門外側の石垣

この櫓門をくぐると南に長い枡形の空間が広がり、枡形を構成する石垣上には多門櫓と2つの隅櫓が建っていた。かなり堅固な構えだ。そして枡形南部の西に開かれた埋門を抜けると、さらに広大な枡形の空間で、そのもっとも本丸寄りの虎口(本丸門)からも、7つの礎石や大量の瓦が出土している。開口部の幅は約7.5メートルで、やはり瓦葺の櫓門が構えられていたと考えられる。このように、本丸にたどり着くまでに巨大な枡形が二重に構えられていたわけだ。

本丸門跡

もうひとつ、北を向いて開く本丸東側の虎口(池尻口門)は、開口部の幅が6メートルで、規模は小さいものの礎石も見つかり、建築物としての門が建てられていたと思われる。

池尻口門跡

そして本丸西側には、大きく張り出した石垣のあとが見つかり、天守相当の建物が建っていた櫓台(もしくは天守台)だった想定されている。事実、宣教師の報告書には、原城の本丸には三重の建物があった旨が記されている。

海からそそり立つ崖に高石垣が築かれ、そのうえに三重櫓や豪壮な櫓門が建つ。とくに海上からは、壮麗で堅固な姿が輝いて見えたのではないだろうか。

本丸の櫓台跡
本丸櫓台近くの石垣

廃城が決まって20年近く建ち、周知のとおり、3万7000人と記録される(それより1万人以上少なかった可能性も指摘されている)一揆勢が、ここ原城に籠城した。そして、やはり発掘の成果として、開戦当時の原城には石垣だけでなく城門や櫓、塀などもそれなりに残っていて、軍事施設としてはほぼ完全な状態だったことがわかっている。

つけ加えるなら、本丸西側の石垣の脇からは、地面を掘り込んだ半地下の竪穴建物が、南北方向に9区画、整然と連なっていたあとが発見されている。籠城の模様は決してカオスではなく、整然たる秩序がたもたれていたことがわかる。

崩した石垣で埋められた人骨

しかし、兵糧攻めののちに寛永15年(1638)2月28日、原城は幕府側の討伐軍の総攻撃を受け、内通者の山田右衛門作を除き、立てこもった全員が殺されてしまう。そして鎮圧後まもなく、幕府はここが二度と一揆の拠点にならないように、また、負の遺産を消滅させるために、石垣などを徹底的に破壊した。

平成の発掘がはじまるまで、原城が埋もれたままになっていたのは、この破壊のためである。

一揆討伐後、3月1日にはもう石垣が破壊され、それはかなり徹底していた。石垣の隅や上部を中心に突き崩されたが、すぐには崩れきらないので、崩れ落ちた築石を前方に引き出してはまた崩す、という作業が繰り返されたようだ。そして崩れた築石をまた、背後の礫や土砂で埋めていった。

天草丸から本丸を望む

だから、たとえば前述の櫓台の跡にしても、石垣の上部や隅が大きく破壊され、崩れた石や土砂で埋められていたため、石垣の張り出しも確認できなくなっていた。本丸の三つの門も同様で、礎石や階段も破壊され、そこに崩された石や土砂が積まれ、形状がわからなくなっていたのだ。

そして、もっとも激しい戦闘が繰り広げられたという本丸大手門の枡形周辺からは、おびただしい数の人骨が見つかっている。崩された築石を取り除くと、その下には大量の瓦が層となり、さらに下に人骨があったのだ。このことから、大量の遺体を建物の残骸で埋めたこと、そして前述したように、島原の乱の発生時には、まだ瓦葺の建造物が建っていたことがわかる。

ただ、これらの人骨はいずれも激しく損壊していて、頭から足まで完全にそろった骨はひとつもなかったという。おそらく幕府は、キリシタンが最後の審判ののちに復活するという教義を理解したうえで、それを恐れ、阻止しようとした。だから、遺体を徹底的に解体し、がれきで埋め尽くしたのだろう。

じつに、途方もない悲劇のあとである。だが、それは同時に、有馬晴信が威信をかけて築いた城であり、キリシタンを中心に苛政に耐えかねた人たちが、現世に一縷の望みをつなぐとともに、永遠に滅びないなにかに望みを賭して戦った城でもあった。そこに想像をめぐらせてほしい。それは、この城が輝いていた瞬間だった。

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。