<城、その「美しさ」の背景>第24回「福井城」 青緑色の屋根と石垣に巨大城郭の面影 香原斗志

本丸側から見た山里口御門の櫓門

家康の次男のために築かれた大城郭

現在、福井城は本丸跡に県庁舎、県議会議事堂、警察本部などが建ちならび、その周囲を内堀が囲んでいる。堀幅は30メートルほどで、正方形に近い堀の一辺は二百数十メートルあり、それなりの規模を実感できる。

だが、それはかつての福井城のごく一部にすぎない。江戸時代は回状に3重、場所によっては4重の堀が輪郭式にめぐらされ、東西と南北がそれぞれ2キロ前後におよぶ巨大城郭だった。

現存の堀や石垣だけでも相応の規模と風格が感じられる福井城。実際のそのスケールは破格のものだった

その前身は、織田信長が柴田勝家に命じて築かせた北ノ庄城で、安土城とならぶほどの規模の壮麗な天守が建っていたと伝わる。だが、勝家は本能寺の変ののち、信長の後継を羽柴秀吉と争った賤ケ岳合戦で敗北。城に放火し、妻で信長の妹の市とともに自刃した。

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦ののち、その地を拝領したのが徳川家康の次男、結城秀康だった。石高は67万石におよび、同6年には燃えて廃墟となった勝家の城跡に築城が開始された。

これだけの大藩の城である。しかも、最初は豊臣秀吉の、続いて下総(千葉県北部)の結城家の養子になっていた秀康は、同9年に松平姓に復すことが認められたともいわれ、名実ともに親藩の大大名となった。このため、全国の譜代大名に工事を分担させる天下普請によって、6年がかりで築城が進められ、その痕跡は現在も石垣の刻印に確認できる。また、本丸や二の丸の縄張りは家康自身が行ったともいわれている。

ちなみに、秀康のころは、まだこの地は北ノ庄とよばれていたが、三代藩主の松平忠昌のとき、「北」が敗北につながるという理由で福居に、続いて福井に改められた。

「福井」の名のもとになったともいわれる井戸「福の井」

品格の高い天守の屋根を覆っていた青緑色の石瓦

本丸の西北角には45階の天守が建っていた。現存する「御天守絵図」によると、12階は同じ大きさで、階の境目に腰屋根がない。すなわち2階のうえに1重目の大きな入母屋屋根が載り、2重目にも2つ目の入母屋屋根が、1重目と交差してかかり、そこに2重の望楼が載せられていた。いわゆる望楼型天守である。

2つの大きな入母屋は、ともに平側(軒に並行な側面)が2つの千鳥破風で飾られ、2重目の千鳥破風のうえには、さらに入母屋破風をともなった出窓があり、最上階には向唐破風と廻縁がつく。そして壁面は柱や長押を浮き上がらせた真壁仕上げ。高さは28メートルほどで、非常に装飾的な、品格が高い天守だったようだ。

残念ながら、この天守は寛文9年(1669)の大火で焼失したのち、再建されることはなかった。その後は本丸東南角と巽櫓と西南角の坤櫓を、再建する際にともに3重にあらためて、天守代用として明治にいたっている。

天守代用だった巽櫓が建っていた石垣(堀にはみ出した部分)

古写真に見る巽櫓は、白亜の層塔型で、大藩の大城郭の櫓らしく、千鳥破風や向唐破風で装飾されている。だが、福井城の天守や櫓をもっとも強く印象づけたのは、おそらく笏谷石をもちいた石瓦だったのではないだろうか。

粘土製の本瓦は、寒冷地では雪や雨がしみ込んで凍り、割れてしまいかねない。そこで寒冷地や雪国の城郭では、屋根材に工夫が凝らされた。たとえば、会津若松城(福島県)は瓦の表面に酸化鉄をふくむ釉薬をかけ、耐水性や耐寒性を強化した。弘前城(青森県)や松前城(北海道)では、木製の瓦に銅板を巻いた銅瓦が葺かれ、金沢城(石川県)では同様に鉛板を巻いた鉛瓦が葺かれた。

では、福井城はどうしたか。地元で産出する笏谷石を加工した石瓦を葺いたのである。

笏谷石とは、約1600万年前の火山活動で降り積もった灰が固まった緑色凝灰岩で、福井市の足羽山周辺で採掘される。やわらかく加工しやすいので、古墳時代から石棺などに使われてきた。淡い青緑色で、濡れると青みが濃さを増すので、越前青石ともよばれる。柴田勝家が北ノ庄城を築いた際も、石垣や瓦に笏谷石を使っていて、イエズス会宣教師のルイス・フロイスが、その屋根の美観について書き残している。

福井城もまた、天守や櫓の瓦のほか、石垣にも笏谷石がもちいられていたので、城全体が青緑色に包まれたような、独特の美しさをたたえていたはずである。

青緑の瓦と青緑の腰板で包まれた美しい山里口御門

石瓦というと、現存する丸岡城天守が有名だ。この天守は創建時は杮葺きだったのが、17世紀半ば以降に石瓦葺きに変更され、当初はすべてが足羽山産の笏谷石だったという。しかし、笏谷石の採掘が困難になっていることに加え、耐久性の問題もあるため、現在は笏谷石をもちいた瓦は、全体の12割にすぎない。

このため丸岡城天守を眺めても、この石の美しさを実感することはできない。では、その美を目の当たりにできる場所はあるのか。幸いなことに、藩主の三の丸御座所と本丸のあいだを結んでいた山里口御門が、遺構調査の結果をもとに平成30年(2018)に復元され、笏谷石の美しさを堪能できる。

山里口御門の枡形内

寛文9年の大火で天守とともに焼失したこの門は、その後再建され、明治を迎えるまで残っていた。本丸西側の高石垣にはさまれた位置にあるこの門は、二重の枡形を構成し、きわめて厳重に防御されていた。

三の丸側から、平成20年(2008)に復元された御廊下橋を渡ると、左方にカギの手になった細長い空間があり、その右手奥に、2本の柱とその上部を連結する冠木で切妻屋根を支えた冠木門が建つ。それをくぐると小さな枡形で、その四角い空間の冠木門から見て左側に櫓門が構えられている。

御廊下橋と山里口御門
御廊下橋を渡ると山里口御門が構える

古写真を見るかぎり、御廊下橋の屋根は瓦が葺かれていないため、杮葺き風に再現されたが、山里口御門は石瓦が葺かれていたことが、古写真や文献からわかり、笏谷石制の瓦が葺かれた。塀の腰板にも石が貼られていたことが確認できるので、復元に際して笏谷石が貼られた。この腰板には鉄砲狭間も開けられている。また、石垣裾部の排水溝も笏谷石で構築されている。

塀に張られた笏谷石の腰板。鉄砲狭間が覗く

屋根や壁が青緑色に輝くこの山里口御門は、えもいわれぬ美しさを湛えている。また、再建に際して石垣の一部を積み直した際にも、傷んだ石があたらしい笏谷石と交換され、その部分が青緑色に輝いている。

現在、この日本有数の大城郭は、その名残をわずかにとどめているにすぎない。だが、再建された山里口御門の姿をとおして、青い屋根の天守や三重櫓が青い石垣上に建ちならんでいたころの美しさに、想像をめぐらせることができる。

御廊下橋の北側から山里口御門を眺める

この門はかつて、天守台下門ともよばれ、事実、櫓門を抜けるとすぐ左に、美しく整形された切込みハギで積まれた天守台がある(石垣自体は焼失後に積み直された可能性が高い)。その屋根の独特の色彩を想像することも、門があるために容易である。

天守台
香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。