<城、その「美しさ」の背景>第23回「熊本城天守」  大城郭の巨大な象徴に施された工夫 香原斗志

本丸から見た大天守と小天守

復興のシンボルとしていち早く復旧した大小天守

令和3年(2021)3月、熊本城の大小天守は復旧工事が完了し、ふたたび観光客を受け入れはじめた。

平成28年(2016)4月14日と16日、最大震度7の巨大地震に二度にわたって襲われた熊本城は、周知のとおり甚大な被害に見舞われた。石垣は50カ所で崩落し、地盤沈下や地割れが70カ所で発生。国の重要文化財に指定されていた13棟の現存建造物は、いずれも大きく損傷した。たとえば、宇土櫓の続櫓は完全に倒壊し、北十八間櫓は20メートルの高石垣もろとも崩れ落ちてしまった。

なにしろ、寛永9年(1632)に、改易になった加藤忠広の替わりに熊本に入場した細川忠利が、息子の光尚に「江戸城のほかにこれほど広い城は見たことがない」と書き送ったほどの城である。高い石垣で幾重にも囲まれているのが災いして、被害があまりに広範囲におよんでしまった。

復旧工事は令和20年(2038)までかかるとされ、道のりは長い。それだけに復興のシンボルとして天守の復旧が優先され、耐震化や安全対策も兼ねて工事が進められてきたのだ。

ただし、大小天守のオリジナルは明治10年(1877)、西南戦争での籠城戦の前に、おそらくは政府軍の放火で焼失し、いま建っているのは、昭和35年(1960)に鉄筋コンクリート造で外観復元されたものだ。江戸時代に大小天守とならんで「三の天守」とよばれたという3重5階の宇土櫓など、復旧を優先すべき文化財があるのではないか、という思いも私個人にはあったが、これから長く困難な作業が続くだけに、シンボルが必要だったというのはわかる。

実際、この天守はさまざまな意匠を身にまとい、それらの総体として、シンボルにふさわしい圧倒的な存在感を誇っている。

安土城や大坂城を継承しスケールで上回った

熊本城を築いたのは、いうまでもなく加藤清正である。だが、天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州平定後に肥後(熊本県)のうち半国を託された当初は、現在、県立熊本第一高等学校の敷地になっている南西方向の「古城」を居城にしていた。

慶長3年(1598)に秀吉が没すると、清正は翌年には「新城」の築城に取りかかり、関ヶ原合戦後、54万石の大大名になるとさらに工事を拡大し、慶長12年(1607)に新城に移っている。

大天守台の石垣は慶長4年(1599)には完成し、大天守自体の建築も翌年10月までには完成したとみられる。一方、小天守台は慶長17年(1612)ごろから積み増されたもので、後述するように、その特徴が大天守台とあきらかに異なる。

また、複数の書状などから古城にも天守があったことは確実で、現存する宇土櫓がそれに該当する、という説が現在、有力視されている。宇土櫓は建築年代が大天守よりさかのぼるはずなのに、慶長12年ごろ(1607)に築かれた高石垣のうえに建っている。古城の天守が移築されたとして、矛盾が生じない。

さて、5重6階の大天守から見ていこう。1階は高さ約12メートルの天守台の四方に、腕木を約半間ずつ張り出させ、そのうえに1階部分を載せている。その1階は平側(軒に並行な側面)が13間、妻側(軒に直角な側面)が11間で、豊臣大坂城の12間×11間を上回る。32.5メートルという高さも大坂城を超え、創建当初は全国最大の天守だった。

こうした張り出しによって、天守台以上の床面積が得られるのに加え、天守台の石垣がゆがんでいる場合、それを修正して上物を建てることも可能になる。

スタイルは入母屋造の建物に望楼(物見)を載せた望楼型だ。一般に望楼型天守は、1階(1重目)と2階(2重目)を同じ大きさにし、2階に大きな入母屋屋根をかけるケースが多いが、この天守は1階に大入母屋がある。石垣から張り出した腕木のうえに載る荷重を考えてのことだったのかもしれない。

腕木を張り出して1階を載せている

そして最初の入母屋屋根に、同じ大きさの2重目と3重目を載せてまた入母屋屋根をかけ、そのうえに4重目と5重目を載せている。つまり入母屋屋根を3段に重ねているのだ。ただし、最上重の入母屋破風は1、2段目と垂直になるように向けられている。これは織田信長の安土城や秀吉の大坂城とおなじ、初期の天守に共通する意匠だ。

また、1重目と3重目に、入母屋破風と見まがうほどの巨大な千鳥破風がある。3段重ねの入母屋破風と相まって、非常に伸びやかである。また、3つの入母屋屋根にはさまれた2重目と4重目の腰屋根は、屋根として数えない場合もあり、その場合、3重天守ということになる。かたや、天守台の天端石のうえにはみ出した腕木にも屋根がかけられているので、6重のようにも見える。

最上重は、現在はガラス張りだが、古写真を見ると隅部に戸袋がつけられている。これは後世の改造で、創建当初は廻縁がめぐっていたが、のちにその周囲に壁をもうけて廻縁を室内に取り込んだと考えられる。

壁面には黒い下見板が張られ、格子窓には突上げ戸がつき、最上重には廻縁がめぐる。そうした意匠は安土城や大坂城のスタイルを継承しつつも、スケールでは上回る天守だったのだ。また、2階、3階、6階は内部も金碧障壁画で飾られ、その点も安土城や大坂城と重なる。

石垣の反りと屋根の反りの調和

小天守も1階は平側が13間、妻側が8間半と大きい。そして大天守と同じく、1階に大きな入母屋屋根がかかり、3重の望楼部が載る。ただし、巨大な大天守から離して均整をとるために、望楼部をかなり北側に寄せており、そのために大小がならんだ佇まいは、バランスがとれていて美しい。

大天守と小天守
二の丸から眺めた大小天守と宇土櫓(左)。宇土櫓の右側にあった続櫓がない

ただし、小天守の3重目は頭でっかちで、軒の出方も小さく、少々アンバランスに見える。大天守同様、かつては廻縁がめぐっていたが、ある時期から廻縁を囲い込むように壁面をもうけたためだと考えられる。また、1階は三方に石落としが設置され、壁面の下部には、石垣を登ってくる敵を寄せつけないために、鉄の槍先をならべた忍び返しがある。全体に古風なつくりだ。

小天守の忍び返しと石落とし

また、内部は1階と最上階の4階が金碧の障壁画で飾られ、やはり初期天守に特徴的な書院造を継承していた。

とはいえ、小天守の石垣が築かれたのは前述のとおり、すでに加藤清正が世を去り、嫡男の忠広の代になっていた慶長17年(1612)以降で、建物の完成は同19年ごろと考えられている。

10年あまりの建築時代の違いは、石垣の積み方に顕著に見てとれる。大天守台は勾配がゆるやかで、隅角部がまだ、立方体の築石の長辺と短辺を交互に積み上げる算木積みになっていない。また、それぞれの築石もあまり加工されておらず、水平に目地がとおるようには積まれていない。

清正が築いた大天守台

一方、小天守台は勾配が急で、隅角部は算木積みで整えられ、築石もそれぞれ同じくらいの大きさに加工され、横目地がとおるように積まれている。また、大小それぞれの天守台に穴蔵(地階)がありながらつながっていないのは、すでに完成している大天守に小天守台が継ぎ足されたからだ。

忠広の時代の小天守台

しかし、2つの天守台に共通点もある。とくに大天守台の石垣は下部の勾配がゆるく、上部にいくにつれ反って、最後は垂直に近くなる。その曲線が扇を開いたときに似ているので、俗に「扇の勾配」といわれる。しかし、あたらしい小天守台も、大天守台ほどではないが曲線を描いている。

二様の石垣(手前が清正、奥が細川時代)と大天守

大小天守はともに、屋根の勾配の反りも大きいが、あきらかに石垣の勾配に合わせて屋根を反らせている。天守台の下部から大天守の最上重まで、大きな反りをめぐらせるという、考え抜かれたデザインだ。大天守最上重を飾る向唐破風の曲線も、反りが交錯するなかでアクセントになっている。

現存の宇土櫓をはじめ、熊本城内にあった6基の5階櫓の屋根は、いずれも反っていない。大城郭の巨大なシンボルを、シンボルらしく美しく魅せるためにほどこされた、計算し尽くされた意匠である。

宇土櫓とその奥に大小天守

香原斗志(かはら・とし)歴史評論家。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。主な執筆分野は、文化史全般、城郭史、歴史的景観、日欧交流、日欧文化比較など。近著に『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの歴史、音楽、美術、建築にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。欧州文化関係の著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)等がある。