<城、その「美しさ」の背景>第22回「島原城天守」 「乱」の一因ともなった豪勢な構え 香原斗志

◇島原城(長崎県島原市)
4万石の大名による大城郭
南から北へ本丸、二の丸、三の丸が一直線にならび、累々たる高い石垣で固められ、広い堀に囲まれている。そして本丸には、『普請方記録』によれば「総高十七間一尺五寸」、すなわち約31メートルと、姫路城とほぼ同じ高さの5重天守が誇らしげに建っていた。さらに往時は3棟の三重櫓、9棟の二重櫓のほか、多くの平櫓(平屋の櫓)が建ちならんでいたという。

いまも本丸と二の丸の外周の石垣と堀は、一部を除いて往時の姿を残し、本丸には昭和39年(1964)に鉄筋コンクリート造で復興された天守がそびえる。どこから眺めても大大名の堂々たる城郭だが、じつは、島原城を築いた松倉重政の禄高は4万3000石にすぎなかった。

小大名がなぜ途方もない大城郭を築くことができたのか。その視点が島原城を解く最大のカギで、そのまばゆさを現出させるために払われた犠牲を知ってこそ、この城の「恨めしさ」と表裏一体の「美」が感じられるように思う。
松倉重政が大和国(奈良県)五条から有馬氏の旧領に移ってきたのは、元和2年(1616)のことだった。キリシタン大名だった有馬晴信の旧領だから、豊臣秀吉が宣教師の国外追放を命じるまで何万人というキリシタンがいて、江戸幕府が禁教政策を進めてからは、潜伏キリシタンも多かった。
そういう領地で重政に課せられた使命は、ひとつはいうまでもなくキリシタン対策だった。また九州には、元来は豊臣秀吉の息がかかっていた外様大名が多かったので、そこに目を光らせ、牽制するという任務も負っていた。
重政は最初、有馬氏代々の居城だった日野江城に入城した。それは元和元年(1615)に一国一城令が発布されたあとのことだが、重責を担っていたため、日野江城や原城をはじめ領内の城や砦を廃城にするという条件と引き換えに、雲仙岳のふもとの森岳とよばれた小丘陵に、あらたに城を築くことを許されたのだ。
領民へ収奪に収奪を重ねて築かれた
とはいえ、4万3000石の大名が、大大名の居城に匹敵する大城郭を築くためには、かなり無理をする必要があったことは、容易に想像がつくだろう。ただし、築城期間は元和4年(1618)から7年3カ月におよんだので、強いられた「無理」の内容にも変遷があった。
重政は当初、南蛮貿易からの利益も築城の財源にしようと考えていたほどで、領内のキリシタンを黙認していたが、幕府の禁教政策が厳しくなるとそれに従わざるをえなくなった。築城開始から3年ほどすぎた元和7年(1621)には、キリシタン弾圧に転じている。
このころから重政の苛政は加速していく。検地に取り組んだがその内容は、領内の田畑の面積を測りなおして単位面積あたりの収穫量を多く記録し、それまでの五公五民から六公四民へ、つまり年貢の割合を収穫の5割から6割へと増やす、というものだった。
こうして収奪を強化しては、築城費用に充てようとしたわけだが、さらに重政は、ほんとうは4万3000石なのに幕府には10万石と申告し、石高相応の城を築く必要があるように見せかけながら、領民に過大な負担を課していった。
負担は年貢だけではない。城が完成するまでの7年あまりの期間に徴発された領民は100万人を超える。歴史画家で郷土史家の宮崎昌二郎氏は多くの史料から、賃金なしの苦役が課された人数が延べ245万人、報酬を払って動員した技術者が延べ50万人、あわせて295万人が動員された、と計算している。
工事がはじまった当初は重政の頭に、島原城を南蛮貿易の砦にするという考えもあったようだが、次第にこの城は、領民たちへの厳しすぎる締めつけの象徴となっていった。
完成後は、領民の目にはさらに恨めしい存在として映ったのではないだろうか。というのも、島原城がようやく完成した寛永2年(1625)、重政は3代将軍徳川家光から、キリシタン対策の甘さを指摘されたうえで、幕府の方針に従わなければ完成した城を没収のうえ改易にする、とまでいわれている。だから、それからはキリシタンへの弾圧はますます苛烈をきわめることになったのだ。
キリシタンを逆さに吊るし、地中から熱湯が湧き出る雲仙地獄に漬ける、というおぞましい拷問まで生み出された。そうした苛政の数々は、寛永14年(1637)年に発生した史上最大規模の一揆、島原の乱の伏線となった。

課役に苦しんだ領民も眺めた破風のない層塔型
4万3000石の大名の城に、高さ31メートルもの5重天守がそびえたのも、きわめて異例のことだった。この天守は島原の乱はもちろん、度重なる災害にも耐え抜いたが、明治9年(1876)に解体されてしまった。
解体前に撮られた古写真が1枚もないため、昭和39年の復興にあたっては、17世紀後半のものと推定される『嶋原城廻之絵図』のほか、さまざまな記録が参考にされた。結果として、復興天守は外壁が白漆喰の総塗籠とされ、1階(1重目)の下部には平瓦を張りつけた(現実にはタイルだが)海鼠壁が採用されている。
復興の口火を切って昭和35年(1960)に建てられた西櫓、同47年(1972)に落成した巽櫓、そして同55年(1980)復興の丑寅櫓と、本丸の周囲に天守を囲んで建つ3つの三重櫓および長塀も、天守と同様に白壁を輝かせている。

だが、『嶋原城廻之絵図』に描かれた天守は4重で、各重とも壁面の下部には下見板が張られているように見える。櫓や塀も同様だ。
ただし、4重に描かれているのは、幕府が将軍家や50万石を超える大大名の城でないかぎり、5重天守を建てるのを嫌ったため、幕府に提出したこの絵図では4重にしておいたのだろう。前述の『普請方記録』によれば1重目と2重目は同じ床面積なので、その境目に腰屋根を設置しながらも、それは正式な屋根とは数えず、4重とよべるようにしていたと考えられる。
整理すれば、解体前の天守は、1重目と2重目は同じ大きさながら、3重目からは規則正しく逓減していく層塔型で、おそらく下見板が張られていた。一方、復興天守は2重目から逓減し、壁面は白亜。加えて、天守台の石垣は明治時代、島原監獄を建設するために上部が崩され、復興に当たっては往時の位置から東南方向に十数メートル移動されている。これは残念だというほかない。
しかし、いずれの古絵図にも共通するのは、層塔型で屋根を飾る破風が最上重の入母屋破風を除いてまったくない点で、それは復興天守にも踏襲されている。復興の際、「破風をつけたほうが城らしい」という意見も出たらしいが、却下されたのは幸いだった。

復興天守が、必ずしも正確には復元されたものではないにせよ、高さ約33メートルと、元来の天守の規模をほぼ踏襲している。破風がないすっきりとした屋根も同様だ。そうした点は、400年前に領民たちの目に映った姿と変わらない。それがまばゆい美しさを湛えるほど、命を賭した一揆に火を点けることにつながったのである。